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「"半兵衛、次は何を目指そうか"、と。眼前に竹中殿が居られるかのような、優しい言われ様だった」 月を見上げて家康は言った。両の拳は握られ膝の上に置かれている。語り口は柔らかかったが、彼の体にみなぎっている緊張は三成にも伝わってきた。恐らく家康は、次の瞬間切り捨てられることも覚悟の上なのだ。三成は小さく息を吐いた。 「…半兵衛様のことだ、きっと秀吉様をお迎えにいらしていたに違いない」 「三成」 素直な感想を述べた三成に、家康は勢いよく振り向いた。その顔が僅かに明るくなったのを見て、三成はあからさまに悪相を濃くする。しかしそれは家康を威嚇するものではなく、どちらかと言えば、己の罪を悔いるような面持ちだった。 「勘違いするな、家康。秀吉様を殺したお前を、私はけして、けして許しはしない。ただお前が何を思ってあのような罪に手を染めたのか、それを私は理解した。それだけだ」 「…それで十分だ、三成。有難う」 そう言って家康は微笑した。眉根を潜めるような笑い方を見て、こんな顔をする男だったろうかと三成は過去を思い返そうとし、やめた。そんなことのために開けるには、彼の記憶の箱の蓋は重すぎるものだった。 小さく舌打ちをした三成の隣で、注がれたまま手すら付けられない杯の中に、小さく月が映り込んでいた。濡れ縁に座る二人の頬を、初夏の夜風が撫でて行く。良い月夜だ。 三成には藤紫の着物が良く似合う、そう言った優しげな唇を家康は今も覚えている。自らの拳で打ち砕かざるを得ないほどに、あの時代こそが家康を構成する太い絆の緒の根元だった。その言葉に倣い誂えさせた単衣を、三成は一度眉を潜め、しかし無言で受け取った。戦場で再会した彼は、戦装束以外の着物を一枚も持っていなかった。 沈黙に耐えかねたのだろう、三成が盃に手を伸ばした。露わになった手首の白と紫の袖の対比が美しかった。 「…私は今でも自分を豊臣軍の石田三成だと思っている。私が貴様に膝を付くということは、秀吉様の軍が貴様に下るということだ。正直、死のうかと思った」 訥々と語る三成は、取り上げた杯を掌で弄ぶばかりで口を付けようとしない。語る内容の重さに比べてその童子のような手遊びは、彼という人間の危うさを表しているようだった。 それ以上喋ろうとしない三成に、思わず家康は口を出そうとした。三成は今すぐにここででも舌を噛み切りかねない男だったからだ。しかしその気配を読んだのだろう、三成は再び傍らに杯を置くと、言葉を継いだ。 「だが、半兵衛様のことを思い出した。半兵衛様は志半ばにして、病に命を奪われた。末期の近づく病床で、半兵衛様は私の手を取り"生きよ"と仰った。あの方の凄烈な生を見た私が、己の手で己の命を捨てるわけにはいかない」 簡単に死ぬわけにはいかない、と最後は独白するように三成は言った。 ある意味では半兵衛の言葉に縛られている三成に、家康はこの時ばかりは感謝する。彼はそうでもしなければ、刀の血糊を払うような調子で自分の魂の緒も断ち切ってしまっただろう。彼に取っては己の命など、物の数にも入らないのだ。 月に雲がかかると、長く伸ばした前髪も相俟って三成の表情を読むのは困難になった。背を丸めて俯く彼は、戦場で見るより一回りも二回りも小さかった。 家康は傍らの杯を取ると、思いきってぐっと飲み干した。焼けるような感覚が喉から胃の腑へと落ちていく。そのままの勢いで体ごと向き直ると、三成の骨ばった肩がぎくりと揺れた。 「儂に出来ることなら何でもする。お前の望みは能うる限り叶えると約束する。だから三成、秀吉から奪ったこの天下を儂がどのように変えていくのか、どうか隣で見ていて欲しい。いよいよ儂に任せておけんと思った時、その刃を振り下ろせばいい。なあ三成、お前が居る限り、儂は儂で居られる気がするんだ。だからどうか」 「それ以上言うな」 ずっと胸の中で練り続け、酒の力を借りて吐き出した怒涛の言葉は、薄く研いだ刃のような声の一閃で途切れた。言葉を詰まらせた家康を顧みることなく、三成は静かに月を見上げた。削ぎ落とされたように肉の無い頬に、雲を抜け出た月光が白々と差す。それは天界へ帰る術を失くした天人が、故郷を懐かしんでいるかと思わせる程に、幻想的な有様だった。 「…秀吉様からお預かりした軍は、今日を持って解散とする」 急な話題の転換に少し驚きながも、家康はどうにか三成に調子を合わせた。 「…分かった。あぶれた者の仕官先は儂も探そう」 「私は物に興味が無い。城も金子も他人に任せきりだ」 「お前はそういう奴だからな」 いよいよもって読めない三成の心中に戸惑いながらも返事をする。 「貴様に敬称など付けんぞ」 「今更だろう」 何を言っているんだ、と問おうとした家康を、三成は音がしそうな程に睨みつけた。金色の瞳に宿った怒りに、家康は思わず息を飲んだ。 「貴様は分かっていない!軍も金も貴様に対する敬意も無い、私が持っている物と言えば秀吉様に賜った刀、半兵衛様から頂いた装束、そして人を斬るこの腕のみだ。貴様が抱え込もうとしているのは、ただの災厄だ!」 「それが三成だというのなら、儂は喜んで受け入れたい!」 負けずに咆えた家康に、今度は三成が黙る番だった。 「…貴様は馬鹿だ」 「それも、今更だな」 ぼそりと呟いた三成へ、家康は眉尻を下げて応えた。その表情は家康を常よりずっと幼く見せた。三成が胸の底に押し込めた美しい記憶の中の少年に、それはぴたりと重なった。年を経て変わる物と変わらぬ物、どちらが多いのかは知りようも無いが、間違いなく目の前の青年はあの日の佐吉へも笑いかけていた。 ほう、と三成は息を吐いた。胸の中に凝った物を、ゆっくりと肺腑から押し出すような、長い長い溜息だった。 「――私は録も領地も要らぬ。そんな金があるのなら刑部の治療に使ってくれ」 その言葉が先ほどの己の言葉への返答なのだと気付くのに、家康は僅かの時間を要した。 「では三成、儂を信じてくれるのか」 「私は二度と貴様を信じない。だから貴様に私は裏切れない」 先手を打つような厳しい言葉に、その意味するような冷たい響きは無かった。三成は、ひたりと家康を見据えて言った。 「ただし、誓え」 三成の声は、限界まで引き絞られた弓弦のように家康の胸を打った。 「私を、置いて、行くな。私より先に死ぬのなら、それより前に私を殺せ。もう私は、残されるのに耐えられん」 家康は童のように落涙した。今や襤褸のように擦り切れてしまった三成の心の痛みを、家康の瞳が引き受けたかのようだった。水晶のような涙は後から後から溢れて家康の頬を濡らした。何も言わない三成を、家康は強引に抱き寄せる。悲しくなる程細い肩先に、無邪気な思い出が揺れていた。三成は抵抗するでもなく抱き返すでもなく、まるで人形のようにされるがままになっている。もはや家康に道は無かった。 誓う、と家康は言った。それは消すことの出来ぬ家康の責であり、三成のために出来る至高の行為だった。家康の涙は三成の単衣に染みて濃紫の陰影を作った。三成はゆるゆると面を上げると、低い声で告げた。 「たった今、貴様に全部くれてやる」 物を持たない三成は、その魂の全てを自分へ寄越したのだと、一度自分を裏切った男へその無垢の魂の一片までもを預けたのだと家康は知った。皐月の空に望月の昇る夜のことである。 |