冬 幾 た び


「さむくはありませんか」
「大丈夫だ。十分ぬくい」
「うわぎをおもちしましょうか。ひばちにすみをたしましょうか」
「心配せんでも良いと言うに」
「ですが…」
「いいから謙信、お前も入れ。そうもうろうろされると儂が落ち着かぬわ」
「それは…もうしわけないことをしました」

微かに眉尻を下げる謙信を見て、信玄はハァと太く息を吐くと、驚くほどに細い繊手をぐいと引いた。まるで予期していなかったと見えて、謙信はすとんと畳へ座りこんでしまった。羽織に着流しという気安い装束に加えて、その無防備な体勢は軍神とも呼ばれた武将を酷く幼く見せた。小さな肩を無理矢理抱きこみ炬燵に入れようとすると、ようやく信玄の思惑に気付いたのか謙信はあたふたと手を翳した。
「嫌か」
「わらべではないのですから、はずかしい」

頑なな謙信の防御に信玄は遂に折れ、膝の中に座らせることは諦めた。代わりに無理矢理隣同士、肩を並べて炬燵に入り、酒を酌み交わす。屈強な体格の信玄のせいで、それは酷く窮屈だったが、肩が触れ合うその距離が、雪景色を眺めるには心地よかった。
「止まんな」
「やみませんね」
しんしんと雪は降り積もる。庭木の緑を覆い隠し、庵の屋根を真綿で包む。全ての色と形が雪を纏って等しく白へと還っていく。二人の世界に言葉は要らない。暫くの間、黙って雪景色に向き合っていた。


とさ、と軽い音を立てて松の枝から雪帽子が落ちた。久しぶりに覗いた常葉の色が、白の世界で一際目を引く。ふと気づけば杯はとうに空だった。時を違えず差し出された徳利に、信玄は頬を緩ませ杯を受ける。
「かいもゆきですよ」
こともなげに言った謙信に、信玄は目を丸くした。
「分かったか」
「わかりますとも。おうしゅうもゆきです」
「そうか」
どこか満足そうに頷くと、信玄はぐいと杯を飲み乾した。すかさず差し出された酒を受け、返す刀で注ぎ返す。炬燵の脇には軽くなった徳利がごろごろと転がっている。

「ひとはだいちをきりわけますが、ゆきはそのようなことかまいもせずにふりしきる。ふしぎなものです」
「国が変わっても観る雪は同じ、か」
遂に手酌で飲み始めた謙信を睨み、信玄はその杯をなみなみと酒で満たす。かたじけのうございます、と悪びれもせず穏やかに応える謙信は、雪のように白い肌を少しも染ませず酒を呷る。そして静かに杯を置くと、言った。
「くにがかわってのむさけは、おいしゅうございますか」
その瞳に映るのは白一色の雪景色。信玄の方を見もせずに紡がれた言葉だったが、それこそが謙信の関心事だったのだと言われずとも信玄には分かった。


信玄は杯を干すと、倣って置いた。傍らの低い頭に手を伸ばし、武骨な手で邪魔な尼頭巾を掻き上げる。露わになった柔らかな肌へ、低い声で答えた。
「お前と共に飲む酒なら、どこで呷っても同じく美味い」
にい、と笑ったその顔は少年のように眩く、そして老獪さの秘める艶があった。謙信は恥じらうように目を伏せ、睫毛を震わすと、逃げるように立とうとした。
「どこへ行く?」
「まだのまれますでしょう。のこりのさけもおもちします」
だが信玄は謙信の袂を捉えて離さなかった。

「酒はもうよい。後はこの越後の見事な雪で酔おうぞ」
「…あなたさまらしくもない」
ふふ、と謙信は小さく笑った。おんなの顔もできるようになったのだな、と信玄は思ったが、あえてそれを口にすることはなかった。それは己のみが知っていれば良いことだった。
肩に感じる僅かな重みがしみじみと愛おしい。遠慮がちに、しかし確かに信玄へもたれかかった謙信は、あどけないと形容できるほどに真っ直ぐ銀世界を見つめている。
自分が今見ている景色と同じ物を相手も見ているのだと、それだけのことでこんなにも幸福なのだと知った。乱世に生まれ戦に生きた偉大なる虎と竜は、いま白銀の世界でうっとりと体を寄せ合っている。