空 蝉


奥書院で何やら書きものをする小十郎の背後へ、一陣の風が舞って黒い影を生み出した。しかし主はもう慣れたもので、何を言うでもなく手元の紙に筆を走らせる。背中合わせに座りこんだ佐助も心得たもので、無遠慮に足を組みかえると馴染みきった座敷でくつろいだ様子だった。
やがて筆を置いた小十郎へ、そつの無い呼吸で佐助は声を掛けた。
「お仕事の邪魔かい?出直そうか」
「いや、いい。大したもんじゃねえよ」


体ごと佐助に向き直った小十郎は、当たり前だが戦装束でも米沢の城での正装でもなく気安い普段着で、それが何となく佐助には面映ゆかった。
正面から相対するのに気おくれした佐助は、文机の上の紙を覗きこんで照れを隠す。そこには短い文字と罫線が書き連ねられていて、少し読むだけでその用途は知り得た。
「係累図?」
「どんなもんだったか気になって、出してみたら結構傷んでてな」
小十郎の言葉を聞きながら佐助はざっと目を通す。小十郎の父、その兄弟、祖父、更にその祖父を生んだ人。線一本で表された無数の生死の物語に、佐助は思いを馳せて嘆息した。

「なんていうか、すごいね」
その言葉を聞いて不思議そうな顔をした小十郎に、こんなちんけな言葉しか出ない自分を恥ずかしく思いながらも、佐助は感想を述べた。
「みんな名前が残ってるじゃん。旦那の爺さんとか、ひい婆さんとか、とっくに仏さんになっちまって、覚えてる奴もこの世にゃ居ないような人の名前が、今も分かるってすごいぜ?」
「そういうもんか」
「そういうもんさ。少なくとも、俺様の世界にゃそんなの無いから」
しげしげと紙を見つめながら言う佐助に、小十郎は思ったままを口にした。


「名は残らんのか。てめえなんざ武田忍隊の長として武勲を挙げてるんだろう」
いつの間にか自分が佐助の名に固執していることにも気付かず、小十郎は言葉を重ねた。佐助は楽しそうに赤い髪を掻き上げると応えた。
「あのね、旦那。俺たちにとっちゃ名前なんてどうでもいいんだ。例えばほら、風魔って忍びが居てね。あんた知ってるかい?」
「北条の隠し刀だな。名前くれえは聞いたことがある」
小十郎の答えに満足したように頷くと、佐助は言葉を継いだ。

「そこの頭目は代々小太郎の名を継いでんのさ。声は出さず顔を隠し、姿も所作もそっくり同じ。だから人には今の小太郎が何代目なのかもわかりゃしない。けれど確かに、風魔小太郎は存在する。いつだって、切れ目なく、確実に」
分かる?とばかりに目を合わせられ、小十郎は微かに肯首した。それはむしろ、幾人もの忍びが寄り集まってひとつの偶像を作り上げているようなものとして小十郎には思い描かれた。
「これが完璧な忍びなんだよ。存在と能力、それが重要で、全てなんだ。死んだり生きたりそういうことはさして問題じゃない」

佐助は笑ってそう言った。小十郎にはその言葉が、理解は出来たが酷く悲しいものに思えた。しかしそれを悲しいと思うことも手前勝手な理屈なのだ、ということまで彼には分かっていたので、何も言うべき言葉はなかった。仕様がなく小十郎は、笑いながら言った。
「確かに、てめえが爺さんになってるところなんざ想像できねえな」
佐助は始め、一緒になって笑った。それから次第に笑い声は小さくなって、少しの沈黙の後、顔を上げた。その顔に浮かんでいる何か決意のようなものを感じ取って、小十郎は知らず身構えた。
「…いい機会だから言っとくけどね」
そう前置きして、佐助は小十郎の目を見て言った。


「俺様、そう長くは生きられない」
何となく予期していた言葉だったが、面と向かって言われると衝撃的だった。小十郎は息を飲んだ。
「戦うために作った体なんだ。毒を飲んで骨を抜いて筋を切って刃を仕込んで、無理に無理を重ねてる。例え殺されなくっても、人と同じようには生きられない」
人と言う言葉を、佐助は他人という意味ではなく使った。その言葉の綾は小十郎にも容易に伝わり、思わず彼を瞑目させた。その様子を見て、佐助はいっそ健気とも言える表情で言う。
「言ってるでしょ、俺たちはそういう生き物なんだって。犬は十年で死ぬ。蝉は七日で死ぬ。そういうもんでしょ。人と同じに考えちゃだめなのさ」

ごめんね、と佐助は言った。彼に謝る理由なぞ無いはずだったが、その言葉は口をついて転がり落ちた。
「ねえ旦那、夏には蝉が一杯鳴くじゃない。その一匹一匹の声を、あんたは聴き分けようと思うかい?その必要はあるかい?無いだろ。ああ鳴いてるな、蝉だな、それで十分だ。あんたが俺に掛けてくれる情けはね、一匹の蝉を籠で飼ってるようなもんなんだよ」
佐助の声はいつの間にか震えていた。小十郎はこの手管に長けた忍びの、こんなにも頼りない声を聞いたのは初めてだった。
「いくら大事にしてくれても蝉は蝉だよ。所詮蝉の都合でしか生きられないし、名も無い蝉を愛でたところであんたにゃ何も残らない。秋が来る前に蝉は居なくなる。だからあんたには、冬も一緒に過ごせる人が必要だ」


佐助は文机の紙を撫でた。景綱、と書かれた下の余白。悠久の歴史を紡ぐ片倉家、その掉尾を飾る小十郎のその下に、いつか生まれる若君の名が晴れがましく刻まれるのだろう。それは佐助にとって酷く神聖なことに思えた。
その手つきを見て小十郎は、太い息をひとつ吐いて、言った。
「しかし猿飛、俺にとってお前は一人しかいねえぞ」
押し殺したような声音からは、男の情の深さが伝わってくるようで、佐助をたまらない気分にさせた。
「お前は心底からそう言ってんのかもしれねえが、どうかもう、そんなことを言ってくれるな」
小十郎の呟きに、佐助は答える言葉を持たなかった。

自らの名の傍らに、などと言う気は無いが、この紙のどこにも佐助の名の残らぬことが、小十郎には不思議に侘しくてならなかった。この世のどこにも証を残さず消えていく彼の名を、どこにも留める術が無いというのに、それを記憶するのも悲しむのも己一人とあってはなおのことだった。
小十郎の指が佐助の頬に伸びて、触れる前に畳へ落ちた。風鈴が一度、ちりんと鳴った気がしたが、秋も深まった今となってはそれも幻想なのだろう。