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いつだったか秋の頃、この城に使いとしてやってきて、部屋を許され泊まったあくる日の朝。北国の冷え込みを物ともせずに朝餉の前の鍛錬を終えた幸村は、汗みずくになった体を清めるために、井戸端に屈んで汲み上げた水を頭から被った。刺すような冷たさが脳天から頭蓋を突き抜ける、その感覚さえ心地よかった。犬のようにぶるぶると頭を振い、水を飛ばして前髪をかき上げる。奥州の空は蒼く高く澄んでいた。 その時、ふと気配を感じて幸村は振り向いた。寝間着の上から華やかな打掛を羽織った城主は、その婀娜めいた出で立ちとは裏腹に、ぽかんとした顔で幸村を眺めていた。 おはようござりまする、そう言おうとした幸村に向かって政宗は二三歩歩み寄ると、桶を持ったままのその手を強引に取った。木桶は地に落ちてからんと音を立てた。 「まさむね、どの」 喉につかえた言葉を無理矢理押し出すと、政宗は僅かに肩を震わせた。しかし手を放そうとはしなかった。ごく近い距離で見詰め合う政宗の左目の中に、同じように目を見開いた己の顔が映っていた。 「…冷たくないか」 ようやく齎されたそれだけの言葉に、もはや声の出ない幸村は大きく首を振って応える。音を立てて自らの顔が上気していくのが分かった。もはや水の冷たさはかけらも残っていなかった。 「そうか」 それだけ言うと政宗はぱっと手を離し、足早に母屋へと戻って行った。視界から政宗が消えると、幸村は思わず井戸に背を凭れかけ、ずるずると腰を落とした。 今になって鍛錬の後の乱れ切った自らの出で立ちが、水を被ってぐしゃぐしゃになった髪や服の有り様がばかみたいに気になって、幸村は慌てて形ばかり整え、そして嘆息した。今までこんなことを気にしたことなぞなかったというのに、おれはどうしてしまったのだろうと、掻き合わせた襟を掴んで考えた。 同時に、自らの手を掴んだ政宗の、長く節のしっかりした手指の感触を思い出していた。水を被ったばかりの幸村に触れた政宗の手は、しかしほのかな温もりを幸村に伝えただけだった。体温の低いお人なのだな、朝餉もあまり召されぬと聞くし、朝に弱い性質であられるのやもしれぬ。早鐘を打つ胸を抱えて空回りする思考の中で、幸村はそんなことも思った。自分の立てた物音が、もしも彼の人の眠りを妨げてしまったのならば謝らねばならぬ、と思いいたる頃には少し平静を取り戻せたようだった。幸村はのろのろと立ち上がると、貸し与えられた自室へ向かって歩き出した。完全に姿を見せた太陽が、幸村の作った水たまりに反射してきらきらと輝いていた。 それから季節はひととせ巡り、幸村は霜に覆われた庭を背にして政宗の手を取っている。もはや幾度かの滞在で親しんだ、米沢の城の客間だ。幸村の訪ないを受けると政宗はいつもここへ通した。彼の私室から一番近い客間がここだと、初めて泊まって程なくして知った。 「どうした?」 驚きながらも満更悪くないような顔をして、右手をされるがままに預けながら政宗は問うた。あの朝以来、政宗は時折幸村の手を取ったが、幸村が自ら政宗の手を取るのはこれが初めてだった。 「…某にも良く分からぬのです」 拙い手つきで手の丈比べなぞしていた幸村は、困惑しきったような顔でそう応えた。 「ただ、次にお会いできるのは春になるなと考えているうちに、この手が勝手に」 淡々とした語り口とは裏腹に、幸村は自らの指と政宗の指を絡めると、ぎゅうと握った。政宗が少し息を飲んだ。相変わらず冷たい手は、幸村の指と絡まって少し温まったようだった。 政宗は膝で幸村へいざり寄ると、行儀よく彼の腿の上に置かれていた右手を取った。今度は幸村が息を飲む番だった。 政宗は幸村の両手をまとめて自らの胸へ引き寄せた。体勢を崩しかけた幸村が慌ててその表情を見上げると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、何やら異国の言葉を呟いた。それが穏当な意味合いでないことは、なんとなく幸村にも分かった。 政宗はしばらくそうしていたが、やがてはぁと一息付くと僅かに手の拘束を緩めた。しかし離しはしなかった。幸村の背後には、小さく彼の荷物が纏められている。 「帰るのか」 「はい」 言葉少なに幸村は応えた。今日ここを発つという約束で甲斐を出てきたのだ。既に小雪のちらつく季節である。このままじりじりと季節が進めば、やがて小雪は吹雪となって山の道を閉ざすだろう。降り始め、降りしきり、そして溶ける。それまでは雪の関が二人を阻む。 もう幸村にも朧げながら、この関係が尋常ではないことが分かり始めていた。きっと自分などより聡い政宗は、先にこの手を取った政宗は、とうに考えていたことだろうとも思っていた。 「文を、書きまする。去年よりも沢山」 「待ってるぜ」 互いの手を取り別れを惜しむ、この気持ちに何と名付けるか。後はもうそれだけという所まで来ていた。もしも幸村の帰参が明日だったなら、手を引き寄せた後自分がどういう行動に出たか、もはや政宗には分からなかった。彼はぐっと下腹に力を込めて自らを律すると、穏やかな手つきで幸村を胸に抱き込んだ。 幸村も予期していたのかもしれない。そう思わずには居られないほど、常の彼からすれば落ち着いた様子だった。 「アンタに言いたいことがある。だがtime limit…次の春までお預けだ」 「政宗殿」 名を呼んで、幸村は政宗の上着の端を、遠慮がちに掴んだ。政宗は多大な労力を費やして彼の肩を二三度叩くと、そっと体を離した。掴んでいた布を手放すと、幸村は思い切ったように笑って立ち上がった。今は付けていない深紅の鉢巻の、棚引く様が政宗には見えるようだった。 「某、一層精進して、次の手合わせでは政宗殿に負けぬよう励む所存にござる!」 「Ha!やれるもんならやってみな!」 常の調子で応じた政宗にも幸村の気持ちは伝わっていた。他国の将、好敵手、友人、そして。今の二人たちの前には無数の道が開けていて、どれを選ぶのも思いのままだった。しかし霞の向こうに見えてきた隘路だけは、容易に選ぶことのできないものだった。 今は好敵手として別れようという幸村には珍しい慎重策を、政宗は無条件で受け入れた。ひと冬かけて悩むのにこれ以上適した題目もそうそう無いだろうとすら思えた。 春が来て再びまみえる時、自分たちが一歩を踏み出す道が一体どこへ続くのか今は分からないが、何であれ共に歩むのならば悪い道行きにはならないだろう。言葉選びの差違はあれ、およそこんなことを同時に考えて、政宗と幸村は好敵手の笑みを交わした。 |