くさぶえ・りゅうてき


暮れ方の空を背に遠駆けから帰ってきた二人は、米沢の城の本丸へと橋を渡る道すがらでふと足を止めた。二の丸と呼び倣わされるそこは、政宗の重臣達が威風堂々たる屋敷を構える区画だった。空気の匂いを嗅ぐようにうっすらと瞳を閉じて風上へと頭を向けると、同じ方向に視線を飛ばす政宗に向かって馬上の幸村は呟いた。
「佐助でござりまする」
「猿がどうした」
「佐助が草笛を吹いております。懐かしい…」

噛み締めるように幸村は言った。政宗は先へと進みたそうな風情の愛馬の首を撫でながら、なるほどこれが草笛というものか、と納得した。さながら川辺の芦が風に鳴るような、軽やかに澄みながらもどこか切なげな音色だ。
「某がまだ頑是ない幼子の頃、佐助はよく慰めに草笛を吹いて呉れ申した。笹も麦も蒲公英も、佐助の手にかかれば笛に変じまする。某にはまるでそれが魔法のようで、何度も何度もせがんだものでござった」
懐かしんで微笑む幸村の、血色の良い肌や茶色の髪へ、落日は似合いの赤色を投げかける。草笛の音に誘われたのだろうか、政宗には一瞬だけ、幼い幸村を背に負うて夕焼けの野を歩む佐助の幻が見えた気がした。

「元服してより佐助は某のお守役から配下の忍となり申した。以来、佐助の草笛はとんと聞いておりませぬ。もとはぐずる某をなだめるための笛。物の道理を心得た頃には笛に頼ることも無くなった故に不思議はござらぬが…まさかこの年になって再びあの音を聞くとは」
しみじみと嬉しそうに、しかしどこか寂しそうに幸村は言葉を紡いだ。ふいに城下を通り抜けた風が、ひと房長い幸村の髪を撫で散らす。風向きが変わったせいだろうか、草笛の音は遠ざかってはまた近づき、この地で生まれ育った政宗の郷愁をも擽った。泣くことで不満を表せる程幼い頃に、政宗は野原で遊ぶことを許されてはいなかったが、この笛の音は時間の流れを遡り、在りし日の梵天丸の寂しさをも拭うようだった。


鞍を並べてしばし口を噤んだ二人だったが、ふと幸村が小首を傾げる。
「しかし佐助は忍の者、自ら耳目を集めるようなことをするとは思えませぬ」
確かに、幸村の傍に在る時の他は姿を隠す佐助にしては、音を奏でるなど不可思議な行動だった。しかし政宗の耳は既にもう一つの音色を捉えている。
「よく聞いてみろ」
どちらかと言えば、政宗にはこちらの方が聴き馴染んだ音色である。能舞台などは言うに及ばず、ちょっとした酒宴や座興などでも耳にする機会が多いが、彼にとってこれが格別の楽器になったのには理由がある。

幸村の耳もその音の端を拾ったようだった。ぱっと振りかえった彼に、政宗は苦笑しながら言った。
「小十郎に乞われたんだろうよ」
「ああ…合点がゆき申した」
高く低く響くは天上の音。竜笛と呼ばれる横笛は、小十郎の十八番だった。彼が政宗の父に取り立てられる切っ掛けともなった笛の妙技については、噂程度に聞いていたものの、幸村が実際耳にするのは初めてだった。
小十郎は代々神官を務める一門の生まれと聞く。歌舞音曲にすぐれているのは血筋のせいか、生まれ育った環境のせいか、とにかく不思議ではないのだ。しかし武勇の誉れ高き武人としての小十郎を知っている今となっては、彼がそういった繊細な"もののあはれ"に傾倒している様が馴染み薄げに感じられる。


「草笛に竜笛、ね…。同じ笛とはいえ、こりゃまたおかしなsessionもあったもんだ」
「しかし美しゅうござる。…某、このような風趣にはとんと疎いので、良くは分かり申さぬが」
「理屈は要らねえ。アンタがいいと思ったならそれはいいもんだ」
自然、二人の馬の口は片倉屋敷へと向いていた。蹄が土を掻く音すらも憚られる程に、ふたつの笛の音は風に似て儚いものだった。屋敷を囲む塀より僅かに覗いた見越しの松、その葉群の中へ紛れるように、夕日を受けていっそ茜色に見える逆毛の端が見える。
差し詰め小十郎は濡れ縁で、頭上の茜へ相対しているのだろうと思えば、寄り添う音と絡まぬ視線の差違がなんとも悩ましい。そこまで考えて政宗は、幾度めかも分からぬ己の思考に嘆息した。

そのとき、半身遅れて鞍を並べた幸村が、改まった調子で唇を開いた。
「佐助は片倉殿と親しくさせて頂いておる様子、成り変わりまして御礼申し上げまする」
そう言って馬上で頭を垂れる様子には何の他意も見受けられなかった。政宗は軽く幸村の肩に触れ、無言のうちに頭を上げるように促す。
「忍とは孤独なものにござりまする。某は佐助を家族のように思うておりますが、主と臣下の境は見えずとも確かにあり、佐助の中には恐らくそれ以上の隔たりが…」
目を伏せる幸村を眺めながら、伊達は少し驚いていた。佐助を兄のように慕う幸村と幸村を母のように見守る佐助の関係は、主従を越えたものなのだろうと勝手に思い込んでいたが、やはりどこかに越えられぬ一線があるのだろう。

「片倉殿ほどのお方が何故に佐助へ目を掛けて下さるのかは分かり申さぬが、恐らく佐助が自ら作った唯一の縁にござりまする。佐助が他国であのように打ち解けておられるのも片倉殿のお陰にござりましょう。有難きことです」
幸村はしみじみとした口調で呟いた。政宗は小さく嘆息すると、返事もせずに馬を進める。と、幸村の手が後ろから伸びて政宗の馬の手綱を抑えた。
「これ以上近づいては佐助に勘付かれまする」
「アンタ…」
絶句した政宗の心を知ってか知らずか、二つの笛の音色は風に吹かれて舞い上がった。どこか物悲しげに細い草笛の音を、茫洋と響く竜笛の音が高く低く包もうとしているかのようだった。


恐らく幸村が配下の忍と政宗の腹心の交流について抱く感情は、八割の安堵と二割の寂しさ、そのくらいのものだろう。しかし彼は心の奥底で何かを感じ始めている。彼は「佐助が自分たちが居ることに気付いたら笛を吹くのをやめてしまう」と思っている。佐助が、あるじに知られたくない何かを隠していることを、半ば本能的に悟っている。
政宗は、知らず唇を噛んでいた。蔭った表情をいぶかしげに覗きこんでくる幸村の稚さが今この時ばかりは恨めしい。まだ決まったわけではないと己の心のざわめきを律してみても、ちりちりと燃える憶測の火は容易に消えないだろう。今までふとした瞬間に胸の奥で熾っては消えていた種火は、今日のこの風のごとき笛音に煽られて、ごうごうと燃え盛るようだった。

もしもこの勘繰りが正鵠を得ているのだとすれば、あの忠義者の従者たちはその心根の故に辛い思いをしているのではなかろうかと、政宗には思えて仕様がなかった。さりとて二人の気持ちを思えばかけてやるべき言葉も何らかの行動も不要であることは間違いなく、自分に出来る一番の従者孝行が「気付かぬ振りをすること」ただこれに尽きるというのだから、不甲斐なさに腸の煮えくりかえる音まで聞こえるようだった。
「行くぞ」
言葉少なに幸村を促し、馬首を本丸へと向け直す。何かを感じ取ったのか、幸村も無言でそれに従った。二人の背をさらりと撫でるかのように、ふた筋の笛音は絡み合いながら黄昏の空へと昇って行った。