|
夜は優しい。誰も僕を見ないし、僕だって何も見ない。聞かない。何を気負うこともなく、独りだけの思考の海に身を浸す。じわじわと闇が体へ忍び込み、僕は夜とひとつになる。壁に凭れた背中の感覚が、すうっと遠ざかり消えて行く。 同じ夜を越える彼のことを考える。彼の前に居た今日の僕のことを考える。何かおかしなことを言わなかったか、しなかったか。ほんの少しでも、彼が僕に向ける信頼と友情を裏切るそぶりを見せなかったか。僕の仮面は今日もきちんと、醜い素顔を隠していただろうか? 僕は膝に顔を伏せる。彼の前に居る僕は、僕が一番嫌いな僕になってしまう。考えなしで、厚かましく、浮ついている。彼の前での振る舞いを一つひとつ思い起こして、僕は自己嫌悪の渦に飲まれる。 僕のこの恋は、きっと上手くいかないんだろう。 そんなことは考えるまでもなく明らかだった。気付いた時には終わらせ方を探すような、ただ暗闇に立ち竦むようなこの想いは、それでも確かに恋なのだ。行き場の無い思いが口と瞳から溢れ出す。腕に顔を押し付けて、僕はひと声くう、と鳴いた。 好きな相手も自分を好いていてくれたなんて、そんなのは幻想だ。お伽噺の世界のことか、実現の可能性は限り無く低い幸運だ。大抵の場合、思いを告げて初めて相手は自分を見て、興味を持ち、「好きになれそうか」「恋人になってみたいか」その判断の結果、世に一組の恋人が生まれる。 ならば口に出せずにこの身の内で、ただ朽ちて行くこの想いは、やはり誰の目に止まることもなく、始めから無かったことになるのだろう。 そうだ、始めから何も無かったんだ。僕は額を膝に当て、ぎゅうと足を抱え直す。小さく小さく丸くなる。幼子のように稚い仕草も、夜ならば全て許される気がした。 朝になったらまた僕は、「理想の僕」のふりをする。優秀な軍師であり、無二の親友。自分は彼の中でこの上なく重要な位置を占める存在だと自負している。それは理想の僕の姿で、彼が望む僕の姿でもあり、しかし醜い僕の望むものとは少し位相がずれているのだ。 苦しい。彼が僕を求めてくれるだけ、僕の欲望と彼の希望の在り様の差がくっきりと浮き彫りになる。苦しい、苦しい。彼の夢と僕の希望はいつでも同じところを見ているのに、僕らはいつでも互いを無二として夢へ向って進んできたのに、病んだ胸の奥深くに閉じ込めた僕の欲が僕らの夢を穢そうとする。 もし僕が、彼から一顧だにされない存在だったならば、こんな苦しみも無かったろう。遠く離れたところから彼を想っているだけならば、そこには寂しさしか無かったはずなのに。 僕は時々、この恋心が憎らしくなる。彼を求める心の重さに、弱い体が負けてしまうのだ。辛く苦しいだけの恋に意味はあるのだろうか。この問いに答えが出る時なんて来ないのだろうけれど、それでも彼の些細な仕草や言葉のひとひらで鮮やかに色付く世界もまた、恋心がくれたのだ。でもそれが、僕にこの恋を諦めさせてくれない。苦しみと喜びは同じだけあると人は言うけれど、どうもこの恋は、苦しさの方が勝っているようだ。 彼の恋を傍らから眺めていたとき、僕の心は凪いでいた。これで諦められると思ったからだ。醜い心を焼き滅ぼして、深い深いところへ沈めて、彼の無二の友としての立場を大事に守って行こうと。 なのに彼の恋が無残な終わり方をした時、最初に沸き起こったのは、友として彼を気遣う心ではなく、深く暗い喜びだった。 僕は僕を心底憎んだ。胸を掻き毟り床に伏して己の浅ましさを呪った。これが恋なのか。こんなにも恐ろしい、卑劣な、汚らしい心が恋だというのか。違う。違う! 僕は彼を幸せにしたかった。彼の夢を己の夢とし、彼の望むところが全て叶えられるようにと祈り、また、そのために全てを捧げたかった。それが、それだけが、僕の恋心を昇華させる手段だと思っていた。なのに僕は、彼の喜びが永遠に叶えられなくなった時に、唇を撓めて笑ったのだ。 もう側には居られないと思った。しかし彼は以前にも増して、強く密に僕を求めた。恋を喪った彼は、夢の実現に邁進することで命の充足を得ようとしたのだろう。僕はこの場に留まった。拭い去ることなど到底できない程の、おぞましい罪悪感を抱えたままで。 これが恋か、と僕は今日も闇へと問いかける。辛さ苦しさばかりの感情。汚らしく醜いこの心。それらを並べて一つずつ手に取り、僕は「恋」を吟味する。 僕のこの恋は、きっと上手くいかないんだろう。 上手く行くことなどあり得ない。そんな未来、思い描くことすらできない。それでもこの心は泣き叫びながら彼を求めるから、今日も僕は醜い素顔に仮面を付けて、彼の求める僕を演じる。僕の夢見る僕を演じる。同じ夜を越える彼が、どうかこの想いに気付かぬようにと、ただただ祈りながら。 手元の紙を引き寄せて、「戀」と一文字書いてみた。あんまり上手く書けたので、悲しくなって破って捨てた。 |