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山の彼方から聞こえてきた声に、政宗は薄く瞼を開けた。夜明け前の刻限、障子を通す光はごく弱く、室内は薄青い色に染まっている。深く息を吐いて傍らの温もりへと寝がえりを打つと、幸村もまた、政宗を見詰めていた。 「狼にございますな」 静かな声は揺れも掠れもせず、彼がとうに起きていたことを暗に告げていた。 「近くに出るのか」 「ここは山城にござりますゆえ」 あまり馴染みの無い獣の遠吠えは、どこか悲痛な響きをもって政宗の胸へ届いた。知らず、彼は幸村の体を腕の中へと引き寄せていた。女子のように扱われるのをあまり良しとしない幸村も、この時ばかりは抵抗せずに政宗の胸に身を寄せる。とく、とく、と幸村の鼓動は、静かにしかしはっきりと政宗の身を震わせた。 「狼は――」 何事か喋り出した幸村の声は、全て政宗の夜着に吸いこまれて消えた。彼は抱き込まれた腕の中で不自由そうに首をよじると、政宗の胸に耳を付けるようにして薄闇の中の隻眼を見上げた。 「狼は、生涯契りを貫くのだと聞き及び申す。一度つがいになったらば、その相手以外とはけして交わらず、例え死に別れても一頭で生きて行くのだと」 幸村はゆるゆると腕を持ち上げると、政宗の黒髪へ拙い手つきで指を通した。 「政宗殿が、竜でよかった」 眉尻を下げた幸村の笑顔は、仄暗い中でも鮮やかに政宗の目を焼いた。政宗は右目の開かぬことを心から悔やんだ。今この時の幸村を、両の目にしっかり刻みつけたいと彼は切望した。 「奥方を、大切になされませ。縁あって貴殿の妻とおなりの方、疎かになさっては罰が当たりまする」 「幸村…」 言葉に詰まった政宗の髪を、幸村は諭すように撫でる。 「奥方と仲良うに、いつか御子を挙げられ、その血を絶やすことなく繋げてくだされ。戦が終われば天下の動乱も鎮まりまする。その時奥州の国と民に平安を齎すのは政宗殿をおいて他にありませぬ。そのようなお方に後継無くば、ちょうど今の豊臣のように、後の憂いとなりましょう」 重臣たちから嫌になるほど聞かされ続けた、しかし小十郎からはただの一度も言われずに来た、その言葉を幸村はさらさらと口にした。まるで、遺言のように。 幸村は黒髪に滑らせていた掌を、そのまま政宗の背中へと回し、夜着のたわみをぎゅうと握った。 「今はまだ無理なれど、政宗殿の愛した方を、政宗殿ごと愛せるように…そのように大きな人に、某はなりたい。いつか、なりまする」 「…あんたは強い」 「いいえ、弱い」 絞り出したような政宗の声を、幸村ははっきり否定した。 「それが証拠に、政宗殿を迎え入れてしまい申した。もう二度と会わぬと決めておったのに」 苦笑した幸村を、今度こそ政宗は、渾身の力で抱きしめた。幸村は小さく呻いて、その抱擁を受け止めた。その腕の力強さとは裏腹な、震えるほどに小さな声で、政宗は抱きしめた耳元で囁いた。 「俺から逃げるな」 政宗の声には、どこか切迫したような不安定さが滲み出ていた。幸村はそれに覚えがあった。出会ったばかりの頃の政宗は、時折このような雰囲気を纏っていた。 「某はそもそも貴殿に囚われているなどと思ったことがございませぬ。むしろ某が恐れるのは、某こそが貴殿を閉じ込める狭い籠へと成り果てること」 「なんだと」 僅かに緩んだ拘束に、幸村は隙間から両の腕を出すと、政宗の頬へそっと触れた。 「高く遠く、心のままに翔けよ…独眼竜。幸村はただ、あなたさまの幸いを希うのみにござります」 左手の指で柔らかく政宗の瞼を、剥き出しの傷跡を撫でる。いつもそこを隠している眼帯は、幸村の髪の結い紐と絡み合うようにして枕元の畳へ打ち遣られていた。遠い記憶、政宗が僅かに躊躇う手付きでその眼帯を外したとき、幸村は政宗の心の扉の、一番奥まで入ることを許されたのだと知った。 幸村は初めての夜の仕草をなぞるように、政宗の閉じられた右目へ唇を寄せた。自分を抱き込む逞しい体が、一瞬たよりなげにざわめいた。 「俺の幸いを、本当の幸いを、あんたが知らねえはずがないだろう」 ゆきむら、と血を吐くように政宗は口にした。政宗殿、と幸村も応えた。遠くで狼が咆えている。分かたれたつがいを探しているのだろうか。 「俺の人生で『最高に』と付くことは、全てあんたに出会って起こった。この意味が分かるか、真田幸村。俺はあんたに会うまで、ちゃんと生きてすらいなかったんだ」 「…それは某も同じこと。今となってはあなたさまにお会いする前、どのように日々を過ごしていたのかも思い出せませぬ」 運命、という言葉でしか言い表せない二人だった。出会いは風の中に一瞬交錯した視線。互いを互いと認めた時には既に、歯車は回り始めていた。それが愛と呼べるのかも分からぬうちに、ただ二人は相手を求めた。 その運命の行きつく先が、今日のこの日に繋がっていたなど、思いもよらぬことだった。 明けの烏がひと声鳴いた。ふと見れば障子の隙間から漏れだす光は朝のそれに変わっていた。 「政宗殿」 言葉少なに促す幸村の真意が分からぬはずもないのに、政宗は一回り小さな熱い肢体を離そうとはしなかった。再び口を開いた幸村を遮るように、政宗は言った。 「あんたが女だったら、と考えることがある」 その仮定を幸村が嫌がることは知って、それでもあえて政宗は口に出した。 「どんな手を使ってでも俺はあんたをものにしただろう。邪魔立てする奴を斬り捨てることになろうが、俺はあんたを迎えに行く。山を越えて川を越えて、被き綿を被ったあんたを奥州に連れて帰る。真っ赤な打掛に金襴緞子の刺繍を入れて、三国一の花嫁の誉れをあんたにくれてやる。そんであんたは俺の子を産み、俺の隣で、俺と共に、ずっと」 もしかすると政宗は泣いていたかもしれない。しかしそれは、政宗の胸に頬を添わせた幸村には図り知れぬことだった。 だが、と呟いて政宗の声の調子は低くなった。 「分かっている。それは、俺が求めた真田幸村じゃねえ。出会ったのは戦場で、刃を合わせて知り合った、そんな俺たちだからこそ、こんなとこまで来ちまったんだんだ」 ゆっくりと政宗は幸村から体を離した。まるで生木を裂くように残酷な痛みが二人の胸を貫いた。耐えがたい喪失感に苛まれながら、政宗は気力を尽くして半身を起こし、未だ横たわる幸村から視線を逸らした。 「次は、いつ会える」 朝の光の中で聞くその言葉は、どこまでも白々しく、陳腐で、哀しかった。幸村は自らの腕で顔を隠しながら、答えた。 「夏。――遅くとも盆には」 言葉の意味は容易に理解できた。理解できたが、理解したくはなかった。夏に戦場で対峙するか、盆に彼の為の迎え火を焚くか。政宗は音がするほど強く奥歯を噛み締めた。 言葉の無い空間を埋めるように、川のせせらぎや小鳥の囀りが聞こえてくる。今ここで運命を違えようとする人間二人なぞとは関係なく、世界は営みを続けている。政宗は無言で立ち上がると、部屋の隅に置いた脇差を取った。枕元から聞こえてくる物音に幸村は体を起こそうとしたが、政宗はそれを制した。 「あんたはまだ寝てる」 「…は?」 無防備な疑問の声に、政宗は答えた。 「俺たちは昨日久しぶりに会って、疲れたあんたはまだ寝てる。俺はもう戻んなきゃなんねえから、あんたを起こさないように静かに出て行くぜ。昔みたいに」 最後の言葉は微かに震えた。ようやく意図を理解した幸村もまた、震える唇を噤んだ。もう何も交わす言葉は無かった。何か一言でも発したなら、ただひとたびでも視線が絡めば、互いの決意など脆く崩れ去るのは目に見えていた。瞼の上に置いた袖の袂で涙を隠しながら、幸村はひたすらに息を殺した。 頭のあたりで政宗の気配がする。恐らく眼帯を付けているのだろう。自分の他に素顔を晒し睦み合える相手を政宗が得られるよう、幸村は愛しさ故の醜い気持ちを抑え込み、ただ祈った。 やがて政宗は立ちあがると、僅かな衣擦れの音を立てながら戸口に向かって歩みを進めた。一歩一歩遠ざかって行く足音を、幸村は全身を耳にして感じていた。 別れを言わない政宗の気持ちと、別れを言えない自分の気持ちが、いま徐々に離れて行く。障子を開ける音がした。部屋に光が満ち、瞼に置いた腕を通して尚も明るさが感じられた。足音の質が変わる。政宗は廊下へ踏み出したのだ。 幸村は、耐えた。何度も立ち上がり追いかけようとしたが、それは政宗の理解と覚悟を裏切ることだとそのたびに思いなおした。 障子の閉まる音。寝室の光は再び淡くなり、足音はやがて廊下を曲がって消えた。 幸村はごろりとうつ伏せになると、肘を使ってのろのろと起き上がった。泣いて痛む米神に脱力感と喪失感が相俟って頭が酷く重い。幸村の世界には政宗の形をした穴がぽっかり空いたようだった。そしてその穴は政宗にしか埋められず、詰まる所これからの幸村はその空虚と共に生きて行かねばならない。 目が覚めるまで再び眠ってしまおうかと思ったが、幸村は視界の端に見慣れぬものを捉えた。枕元に置かれた紺青の紐は、記憶を辿れば政宗の脇差の下げ緒に似ていた。そして互いの熱を絡ませながら、夢うつつで彼の手に解かれた緋色の髪紐は、まるで紺青のそれと入れ代わったかのように姿を消している。 彼はゆっくりと竜の忘れ形見へ手を伸ばした。微かに政宗の好む香りの残滓が鼻腔を擽る。政宗殿、と唇だけを動かして、幸村は下げ緒を胸へ抱き留めた。今はこの紐の一筋だけが、自分と彼の人を繋ぐよすがであるように思えた。 拙い手つきで手櫛を通して形ばかり整えた髪を、幸村は彼の紺青で結う。不思議な安心感が、そっと幸村を背後から押し包むようだった。彼は立ち上がると、政宗が出て行った障子を大きく開け放った。 ――できることなら、夏に会いたい。刃を交わして出会ったならば、刃を交わして別れたい。 そう願う彼の心は、驚く程に穏やかだった。緋色の髪紐は今頃彼の刀を彩っているのだろうか。青と黒で統一された彼の装束の中に一点だけ燃える色を思って、幸村は小さく微笑んだ。もう狼の声は聞こえなかった。 |