埋 み 火


止めようとする声に耳を貸すことなく力任せに引き放たれた戸へ、居並ぶ人々が次々に振り向く様はまるでさざ波のようだった。波及を遅れて感じた家康が視線を上げた時には、最早彼のための道が出来あがっていた。
広間をぎっしりと埋め尽くす人々の海を割るようにして、伊達政宗は悠々と歩いて行く。場にそぐわぬ気安い身なりは、広間の最奥に座する男への侮りと取られた所で申し開きすらできないだろう。
あまりの不遜に喰ってかかろうとする男たちを、一段高い場所から家康は制した。
「よく来てくれたな、独眼竜」
そういって微笑むと、彼は年相応にあどけない印象になった。家康の眼前へ進み出ていた男が、政宗に場を譲るようにして後ろへ下がる。本来ならばこの場に居るはずのない安芸の主の姿に政宗は僅かに表情を変えたものの、その口を開くことは無かった。

遂に家康の前まで歩み寄った政宗は、家康の双眸を隻眼できっかりと見据えたままで、懐に抱えていた布包みを、何の予備動作もなく投げつけた。
小ぶりな壺ほどの大きさではあったものの、その中身が硬質なもので無いことは気配で知れていた。政宗の投げ方も、放って寄越したという程のもので、全く力が入っていなかった。だから最前列に居並び彼の行動が見えていた者たちも、驚きこそすれ慌てて立ち上がるようなことはしなかった。
家康は、緩く弧を描いて投げ渡されたそれを、反射的に受けとめかけて、取り落とした。鈍い音を立てて畳に落ちたそれは、ごろりと転がりすぐに止まった。その拍子に、布の一部がべろりと捲れた。

広間には声にならない混乱が広がった。家康は己の目の前にあるものを、一瞬理解できないようだった。
布の隙間からはみ出した、赤茶けた線状のものがぞろりと伸びて散っていた。それが人毛であることなど、確かめずとも知れていた。
「おいおい、しっかりしろよ大将。戦が終わったからって呆けてんじゃねえのか?」
冗談めかして苦笑しながらゆっくりと政宗は屈み、転がった包みへ再び手を伸ばした。抱え上げる手付きにはどこか艶のようなものが感じられた。まるで生娘の肌着を落とすかのように、柔らかく、政宗はその布を家康の目の前で取り去った。
「アンタがいつまでも未練がましく探しやがるから、わざわざ持ってきてやったってのによ」
そう言って政宗は優しく微笑むと、家康の膝の上へそれを――真田幸村の首をそっと載せた。


「…なぜ」
ようやく家康が出したその言葉は、一体なにへ向けた疑問なのか定かでは無かった。しかし政宗はそれを勝手に受け取って喋り始めた。
「自分の最期を悟ったんだろうよ。俺の所へ来たんだ。竜の首を取って果てるもよし、竜の爪にかかって死ぬもよし、ってな」
まるで膝の上の猫でも撫でるかのような調子で、政宗は幸村の髪に手櫛を通した。死後数日経っているのであろう、その髪にはもはや水気が失せて、人形のそれのようにぎしぎしと軋んだ。
「俺が勝った。紅蓮の虎の首を取った。真田源次郎幸村は、俺がこの手で殺した。…何か文句があるか」
ぎっと己の瞳を射抜く政宗の眼光に、家康は確かに微かな炎の残滓を見た。政宗は幸村の後ろ髪を鷲掴みにすると、家康に向かって付きつけた。

「良く見ろよ、徳川家康。アンタが恐れた男の首だ。…乱世の英雄は、死んだ」
家康の目が、かっと見開かれるのを政宗は静かに眺めていた。
ようやく家康は幸村の首に手を延べた。人の首級など幾度も手にしてきたはずだが、彼の手付きはまるで火の付いた爆弾を扱うかのようだった。
彼にとって幸村は遥かに仰ぐ偉大な虎の後継であるが故に、無視できぬ存在だったことだろう。また、戦場以外では温厚な幸村が、家康に対しては敵愾心に近い物を持っているのも政宗は知っていた。
皮肉なものだ、と政宗は思った。同じ人物の薫陶を受けながら、片や新たな時代を切り開き、片や滅びゆくものに命を賭した。
あの蜩の夕暮れの中、本丸に控える家康を求めて単騎で駆けて行った幸村は、二度と政宗のもとへ戻らなかった。


真田幸村の首級を間近に見詰めて絶句する家康から、政宗はふいにそれを奪い返した。赤い髪紐がするりと落ちて、ひと房長い髪がばらりと広がった。
「これは俺の物だ」
低い声で彼は言った。家康はその言葉の意味をどう捉えたら良いものか分からず、ひるんだ。その間にも政宗は、持って来たときと同じように首を布で丁寧に包むと、懐で押し包むように抱え直した。
踵を返そうとする政宗を、思わず家康は呼び留めた。
「待て。仕置きの話をしに来たのではないのか」

今日の会合は、天下分け目の合戦で自らに与した者たちに、家康が敗北した者たちの土地を分け与えるための物だった。政宗の登場ですっかり場が崩れてしまったが、それまでは家康が一人ひとり名を呼んではその働きに応じた褒美を言い渡していたはずだ。
しかし政宗は立ったまま、家康を見下した姿勢で言い放った。
「俺とアンタは対等だ。施しなんざいらねえよ。前哨戦のうちに俺は自分で周辺国を切り取った。それだけで十分だ…と言いてえとこだがな」
そこまで言うと政宗は、一息ついて言葉を継いだ。

「上田を寄越せ。こいつを葬る。俺がこいつを殺したんだ、文句はねえだろう?」
家康が静かに是と答えると、今度こそ背を向けて政宗は部屋を後にしようとした。しかし戸に手を掛けた姿勢で振り向くと、静まり返った部屋の端から家康へ良く通る声で言った。
「今日この時より真田の土地と城と民――こいつが持ってた物やこいつに連なる事の全ては俺の物になった。俺は、俺の物にどんな些細な事であれ手出しされることを許さねえ。…よく、覚えておけ」


入って来た時とは対照的に、政宗は静かに戸を閉めた。次の間に控えていた小十郎を伴い、足早に屋敷を後にする。大広間で起こった静かな騒動はどうやら邸内に伝わっているらしく、皆一様に政宗とその手の中にある物を避けて通るようだった。
「…手荒な扱いをした。悪かった」
そう言って政宗は、包みをそっと小十郎に手渡した。小十郎は小さく微笑んだ。
「いいえ。これも本望でございましょう」
小十郎は受け取ったそれを、まるで赤子でも抱くかのように胸に添えた。その様を見ながら政宗は、ぐうと伸びをした。上田へ向うのは久しぶりだ。

山を越え街道を駆けて行きつく先に、もはや自らを待つ者はいない。そのことを考えて、胸に広がるのは沈みゆく太陽を見る感傷だった。あの日の風を頬に感じる幻想に、政宗は自らの心の中の一部が、彼と別れたあの時から時を止めていることに気付いていた。それでいい、と思っていた。
「早く埋めてやんねえとなあ」
あの日の熱はまるで埋み火のように政宗の体に残っていた。その熱の芯に在る物は、幸村と共に死んだ自らの心臓のひとかけらだ。最早政宗に彼の肉体への未練は無かった。
蝉も蜩も最早消え果て、彼らの耳に聞こえて来るのは奔りの鈴虫のさやかな鳴き声だった。

夏が逝ったのだ。