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書簡を脇へ押し遣ると、政宗は脇息に体を横ざまに預け、片手で目元を軽く覆い隠した。ただ、それだけだった。小十郎が考えていたような狂乱も慟哭もそこにはなかった。深く呼吸を繰り返しながら喪失の事実へ立ち向かう青年の肩は、細く尖って震えていた。 湿気を含んだ夏の夜風が開け放った蔀戸を潜り抜け、一つだけ灯された燭台の明りを脅かす。小十郎は静かに立ち上がると戸口へ歩み寄った。伊達軍が陣所に借り受けた古刹の庭は、塀の外で行われたこの世の地獄も知らぬ風に、枯山水の白石を月下に仄かに輝かせながら眠っている。雲ひとつ無い、良い月夜だった。 ふ、と血の匂いがした。小十郎は無意識のうちに顔を上げ、夜空を仰いで感覚を澄ます。ちりっと頬の古傷が焼けるような感覚は、戦場に立ったときのものだった。何かが来る。そして小十郎は、この風の香りを知っていた。 思わず動きそうになった体を押し留めたのは、政宗の面前であるという理性だった。小十郎の足は一歩踏み出したところで根の生えたようにその場で固まった。その瞬間、泥の詰まった土嚢を思いきり打ち捨てたような、重苦しいぐちゃりという音が庭に響いた。 枯山水の小宇宙に落ちてきたそれを見て、かろうじて保たれていた小十郎の自制心はふつりと切れた。彼は足袋のままで声もなく庭へ飛び降りると、白砂に長く伸びた影へと手を掛けた。 「真田――」 背後からの声は政宗のものだったが、彼も程なく事の次第に気付いたようだった。しかし小十郎に主を振り返る余裕は無かった。 青褪めた頬はぴくりとも動かず、闇に目を馴らしてみれば、彼の体を中心に白い地面が赤黒く染まっているのが分かる。絶対的な終焉の気配が闇の中に立ちこめていた。小十郎は合わぬ歯の根を噛み締めて、二三度その横たわる肩を叩いた。布越しに鋼の冷たさが染みた。 重たげに目蓋を開けた男は、眼前に跪く小十郎を見て、困ったように少し笑った。その微笑みは小十郎の心臓を凍らせた。戦場で看取った仲間や臣下の顔が走馬灯のように彼の眼前を駆けた。 幸村の顔をした影はゆっくり口を開くと、小十郎がぎょっとするほど大きな、歯切れの良い声で喋り出した。 「奥州筆頭伊達政宗様…不肖猿飛、幾度も文の遣いをして参りましたが」 「喋るな猿飛!」 小十郎を見越して濡れ縁の政宗へと視線を飛ばした佐助は、ぐにゃりと折れ曲がり横ざまに転がった姿勢のままで、奇妙なくらい平常通りの声を出した。制する小十郎の声を振り切り、尚も続ける。 「これが最後の文で御座います。我が主、真田源次郎幸村より託されました」 左手で懐を探ると、佐助は折り畳まれた紙を取り出した。端が僅かに血に染まっている。小十郎は思わずそれを受け取ると、政宗へと手渡した。手紙を離した佐助の手は、糸の切れた繰り人形のようにごとりと地面へ落ちた。 その時小十郎は、佐助の懐に布に包まれた何かを見た。彼はただ落ちてきたのではなく、その何かを守るため受け身を取らずに自らを下敷きにしたのだと小十郎にはやっと理解できた。佐助が身を丸めて隠すようにしているため、しかと見分することはできないが、小十郎には察しがついていた。 「庭先を卑賤の血で汚す御無礼、平に御容赦くださいませ」 手紙に目を走らせる政宗へ、佐助は取り澄ました声で言った。不気味な方向へ折れ曲がった手足も、小石の上へ大輪の牡丹を咲かせ続ける腹からの血も、何一つその声にはそぐわなかった。 ゆっくりと紙を畳んで、政宗は一言問うた。 「真田の、からだは」 抑えた声音に思う所があったのだろう、佐助は囁くように答えた。 「安井の神社に」 「急ぎ手のものを行かせる。必ず上田の地へ戻してやる」 「…有難き幸せ」 吐き出すようにそう言うと、佐助は一度口を噤んだ。どのように切り出すか迷っているような風情を見て、小十郎は思わず助け舟を出した。 「真田の子か」 倒れ伏した肩がぎくりと揺れた。政宗は一度大きく目を見開くと、外履きの下駄を突っ掛けて枯山水を踏み荒らしながら佐助のもとへと駆け寄った。 佐助が力なく手を挙げると、その胸元には小さく体を丸めた童女が収まっていた。人目を避けるためだろう、墨染の布を被らされているが、その隙間から見える纏った小袖は燃えるような緋色で、嫌が応にも伊達の主従の目を引いた。眠る童女はぎゅっと赤子を抱きしめている。童女の顔立ちは、佐助が模した幸村のそれによく似ていた。赤子も童女と同様にすやすやと安らかな寝息を立てており、佐助が何らかのすべを施したのは明らかだった。 「…旦那のお立場に縋るようで心苦しいんだけど…若君と姫様を…」 皆まで言えない佐助の言葉尻を政宗は自ら掬い取った。 「伊達で預かる。素性は隠ししかるべく育て教え、娘は時期が来たらうちから嫁に出そう」 きっぱりと言い切った政宗に、佐助はもう言葉も無いようだった。何度も何度も頷くと、身を起こそうと片肘を付き、自らの血溜りに滑った。 小十郎はそれを見ると手を差し伸ばして佐助の胸から子らを掬いあげた。娘の方は年の頃なら四つか五つ、赤子は生まれて間もないようだった。いいな、と視線で問う小十郎に、か細い声でありがとう、と答えた佐助には、もう先ほどまでの気迫は残っていないようだった。 「主の首には賞金が掛けられ、一族郎党は残党狩りに遭っている。そんな中で御子二人を預けるのは迷惑な話だって分かってるよ、でも」 「皆まで言うな、猿飛」 細い声に答えながら、政宗は小十郎から小さな体を受け取った。 「俺が真田にしてやれることは、もうこの位しか無えんだ」 その声は低く夜空の底へ響いた。喪失が政宗の心に刻んだ深い傷が、一瞬二人の従者の眼前に見えた。 「俺様、行くよ」 そう言って立ち上がろうとする忍に、伊達の主従は目を剥いた。彼の体がもう使い物にならないことは、一見すれば分かることだった。 「忍びの頭が、仮にも他国の殿様の前で果てるなんて、恥ずかしくって冗談にもなりゃしない。旦那からの最後の命は果たした。もうここに居る必要はない」 折れた足を物ともせずに立ち上がろうとする佐助を、小十郎は強く抱き留めた。佐助は芯から驚いた顔をして振り返った。政宗の前で小十郎がこのような行動を起こすとは考えていなかったのだ。 「お前、どこで果てる気だ。この体で仇討は望めんだろう。どこぞの森の木の上で獣のように死を待つのか。土に横たわり薬を呷るか」 「旦那…」 「最期くらい我儘を聞け」 幸村の顔をして唇を噛む佐助より、小十郎の方がよほど手傷を受けたような顔をしていた。政宗は一つ息を吐くと、子らを抱いたまま言った。 「小十郎、俺は何も見ていない」 「政宗様」 様々な感情が綯い交ぜになったその声には答えず、政宗は濡れ縁へ上がると静かに障子を閉めた。塀と障子に囲まれた白砂の天地に、小十郎と佐助だけが残された。小十郎はあぐらを掻いた膝の上に佐助の頭を横たえると、不器用な手つきでその髪を撫でた。遠い記憶に覚えている彼の髪の感触とは明らかに違うのが悲しい。討たれた主の行方をくらますため、彼が決死の影武者として飛び回ったのであろうことは聞かずとも知れた。 「…俺が死んだら首を切って」 小さな佐助の呟きに、小十郎は手を止めた。 「この首を、真田源次郎だって言って徳川に持ってけば、それで全部済むだろ」 「…てめえは、どんだけ俺を…」 「ごめん」 もう一度ごめん、と言って薄く目を閉じる佐助に、小十郎は否やを唱えることができなかった。身の一片までも主に捧げつくすその姿は小十郎にとって眩しくもあったからだ。沈黙をもって是とする小十郎に、安心したように佐助は大きく息を吐く。佐助の体が少し軽くなったような気がして、小十郎は知らず肩に掛ける手へ力を込めた。 小十郎の目には、幸村に化けたその化粧の下の、佐助の素顔が二重写しのように見えていた。思わず頬に触れようとして、指を引く。化粧が落ちてしまってはまずいと考えたのだ。そんな自分の思考に小十郎は奥歯をぎりりと噛み締めた。 佐助の血は止まったようだったが、それはもう血が出尽くしたということだと二人とも分かっていた。佐助は蝶の羽ばたくような、さやかに風を打つようなかそけき声で呟いた。 「…うつし世ってのは、おかしなもんだねえ。しがない乱破が、敵方の陣所の前庭で、御家老の膝で見送ってもらえるなんて、さ」 俺様、生まれてきたときには、こんなことになるなんて、思わなかったよ。もはや視界も霞んでいるのだろう、定まらぬ視点で小十郎を捉えながら、息だけの声で佐助は言った。震える掌を小十郎が取る。こんな風に肌を触れ合わすのは、二人が想い初めた頃以来のことだった。この世のほかの思い出に、とどちらが思ったのかは知れない。しかし冷えて乾いた佐助の手は、熱く大きな小十郎の手へ、自ら指を絡めた。 覆いかぶさるように俯く小十郎の顔が、皓々と輝る月に影を作る。その影に身を浸して、佐助は微笑んだ。 「右目の旦那、伝えておくれよ。俺の、二番目に大事なひとに」 小十郎の服の合わせに添わせていた指を離し、佐助はゆるやかに語りかけた。 「二番目に大事で、でも一番に好いたお方に」 薄く開かれた瞳には、振り絞られた意志の力が満ちている。 「『俺は昔あんたに惚れて、気持ちは今でも変わらない』って」 小十郎はぐっと瞼を閉じた。 「『あんたにそう言えなかったことが、俺のひとつだけの心残りだ』って」 ぎこちなく口の端を釣りあげて佐助は笑った。 「伝えておくれ、ぜったいだよ」 小十郎は声もなく佐助に顔を寄せると、頭に腕を回すようにして精いっぱいに抱擁した。 「…てめえがどこに居たとしても、必ず見つけ出して答えを伝えてやる」 分かったか猿飛、と耳元で囁けば、佐助はこくりと一度頷いた。最早声を出すのもままならないのだろう、木枯らしのような息は喉から漏れ出て小十郎の頬を撫でた。残された時間が少ないことは互いに分かっていた。 佐助の頬を覆うようにそっと掌を添わせると、小十郎は佐助に倣い、慣れない笑顔を作って見せた。 悲壮という言葉が似合うほどに、自らを律し抜いた二人だった。傍から見ればそ想いの形は辛く苦しいものかもしれない。それでも二人の心持は少しも違うことがなかった。 ――愛されて嬉しかった。愛して幸せだった。 恋の籬のあちらとこちらで視線を交わし、言葉を紡ぎ、時折隙間から手を伸ばしては、触れることなく空を掻く。静かで仄かでその実深い二人の恋の道程は、月下の庭で幕を下ろそうとしている。しかしそれは、次の舞台の幕を開けるための準備に過ぎないのだと小十郎は信じた。装置と背景を入れ変えて、また再び演者たちは花道を渡るだろう。今自分の膝の上で冷えて行くこの体も、この舞台での衣装を脱ぎ捨てようとしているだけなのだと。 夏が終われば蝉は死ぬといつか佐助は小十郎に語った。自らを蝉になぞらえた彼の言葉を借りるなら、今生は互いに未だ土の中、外の世界を夢見ているだけなのかもしれない。 ならば佐助は。今際のときを迎えてもなお、白い頬に笑みを絶やさぬ佐助は。うつせ身の抜け殻を残して、羽を広げようとしているのではあるまいか。 「ああ、だんな」 唇の動きで小十郎は、その言葉を読み取った。遂に閉じられた瞳の先、こまかな睫毛が震えている。ほろほろと零れて行く佐助の命を確かめようと、小十郎は冷たい手を握り直した。もう握り返す力も無いようだった。びくり、びくりと二度ほど体を跳ねさせて、ほうと大きく息を吐くと、佐助は呟いた。 「月がきれいだねえ…」 それきり、佐助は喋らなかった。目も開けなかったし、息もしなかった。しかし小十郎には確かに、壊れた体を抜け出して行く、佐助の笑顔が見えていた。 佐助が最後の言葉を向けたのは先立った主かそれとも自分か判然としなかった。そんなところまでも彼らしいと小十郎は少し笑った。瞼を閉じた佐助には、一体どんな月が見えていたのだろう。小十郎が持つ佐助との思い出は殆どが夜のものだった。俺と見た月ならば良い、と小十郎は少し強欲になった。 さく、さく、と玉砂利を踏む音がする。気付けば月は傾き地平の果ては白み始める刻限だった。 「…できた忍だったな」 静かに言った政宗の声には、小十郎への気遣いが多分に含まれていた。申し訳ないと思いながらも、小十郎は否やを口にした。 「いいえ、政宗様」 冷え切った体を抱き寄せる。軽くなった、と思いながら、小十郎は穏やかな声で言った。 「猿飛は、優しい人でございました」 なあそうだろう、と語りかける小十郎に、佐助の抜け殻は永遠に変わらぬ仄かな笑みを返した。伊達の主従の作る影が、踏み荒らされた枯山水に長く黒い影を作る。今日も暑い一日になりそうだった。 |