|
天涯を見ていた。宵闇の中では山の稜線も不確かで、ただ暗さの濃淡があるだけだったが、佐助は飽きもせず日の昇る方角の遠いところを眺めていた。東からやってくる運命を待ち構えるような、受け入れるような、凪いだ心中だった。 そこへ草のざわめく音がして、彼は遥か地面を眺め下ろす。主の褐色の髪は闇に溶けていたが、真っ白な夜着だけがぼうと光るようだった。 樹上から佐助は問うた。 「旦那、どうしたの。風邪ひくよ」 普段通りを心がけた言葉は、夜の空気を上滑りして消えた。幸村は答えず佐助の座る木に寄ると、幹に手をかけおもむろに登り始める。 驚いたのは佐助である。彼は慌てて頂上から降りてくると、下生えの小枝をばきばきと折りながら苦戦する主に手を貸した。なんとか木の中頃の太い枝に腰を落ち着けて、幸村は言った。 「昔はもっと上手に登れたのだがな」 「あったりまえでしょ、自分がどれだけ育ったと思ってんの。もうちっちゃな弁丸様じゃないんだぜ」 呆れながらその上の枝に陣取った佐助は、主の頭を眺め下ろしながら懐かしさに胸を打たれていた。涙声で佐助の名を呼びながらうろうろと探し回る若君を、抱え上げて何度も木に登らせてやったものだ。自力で登れるようになってからも、佐助が居る場所までは流石に来れず、佐助はぐずる若君のご機嫌取りに必死だった。 他愛もない触れ合いの果てに、今日のこの日がある。童が大将になったのだ、流れた月日は推して知るべきだろう。月影に潜むようにして邯鄲が甘やかな声で鳴く。夏の夜はどこか感傷的に深まって行った。 眼下でごそごそと動いていた幸村は、ようやく座りの良い場所を見つけたのだろう、幹に背中を預けると宙に足を投げ出した。 「どこへも行かぬのか。夜が明けるまでまだ時間はあるぞ」 笑いながら佐助を仰ぎ見る表情に、悲壮感は全く無かった。この人は強い、強くなったと佐助は思った。 「最後の夜にしのび会うような相手が俺様に居ると思ってんの?」 笑いながら返す佐助に、幸村は真面目な顔をして言葉を重ねる。 「お前の命はおれのものだが、お前の心はお前の物だぞ、佐助」 「主の他には何も持たぬのが忍の倣い。戦場に主を置いて好きな所に行くようなのは忍じゃない」 樹下を見渡せば野営の陣所に何とも言えぬ緊張感が満ちている。夜明けとともに行軍を開始すれば、昼には戦場に着くはずだった。大阪の城より石田・大谷両軍が押し出して迎撃、中四国より遠征してくる毛利・長曾我部の連合軍は、もう約束の山上に陣を張った頃合いだろうか。 時代を変える戦の前の、宵風は昼間の熱を取り去るように涼やかだった。 状況が不利であることは誰の目にも明らかだった。徳川を首領とする東軍の数は、日々雲霞のごとく膨れ上がり、西軍のそれを圧倒して行った。新しい時代を掲げる英雄が、旧弊を信望する狂人を討伐するという構図がすっかり出来あがっているようだった。 それでも幸村の決意は揺るがなかった。幸村の義と絆と誇りは、もとより数の大小で行き先を変えるような性質のものではなかったのだ。 「毛利殿がいつか仰っていた。佐助は心を持った忍だと」 戦を控えた武将とも思えぬあどけない仕草で幸村は脚を前後へ揺らした。つられて枝葉がさやさやと音を立てる。 「どのようなおつもりで言われたのかは分からぬが、おれはそれを聞いて嬉しかった」 幸村は少年の面影を色濃く残した頬をほころばせ、遠くを見ながら呟いた。 「佐助がおれの忍でよかった」 短い言葉は佐助の心の中でふわりと花咲くようだった。佐助は無言で首を振った。言葉は無かったが、彼の思いは違わず幸村へ伝わったようだった。 月下の主従は暫くの間、口を閉ざして遥かな山並みの影を眺めていた。ここ数年は怒涛のように時間が過ぎて、こんなに穏やかな時間を二人で過ごすことも無くなっていた。幸村はふうと息を吐くと、苦笑するように言った。 「それだけ言いに来たのだが…済まんな」 「…旦那?」 顔を伏せた幸村へ、佐助が探るように声をかける。幸村はゆっくり顔を挙げると、斜め上の佐助へ顔で正対して言った。 「もっとできた主であればお前も死なずにすんだであろうに。許せよ」 その傲慢さは佐助の心を芯から喜ばせた。 「何言ってんの。旦那を守ると決めた時点で、俺の命はあんたのもんさ」 それが佐助の喜びで生きる意味なのだと、幸村はきちんと理解していた。それでもほんの少し覚える引っ掛かりが、彼の優しさだった。 夕涼みの徒然に、佐助は唇を開いた。 「旦那は知らなかったかもしんないけど、俺は昔めちゃくちゃ弱かったんだ」 少し驚いたような瞳が佐助を見上げた。丸く見開かれた目は、昔から何も変わらず邪気なく佐助を見詰める。 「まあ考えりゃ分かるだろうけどさ、他の同年の奴らがお館様の命を受けてお仕事に励んでる中、俺様はずっと子守役だぜ?弱かったからしょうがないとはいえ、あんたの散らかした玩具の片づけとかしながら泣きたくなったよ、実際」 今になったから笑って言えるのであって、当時はきっと辛かったであろうと幸村は察した。だから間髪入れずに言った。 「だが、強くなった」 「そう、あんたを守るために」 同じように言い返して佐助は笑った。その笑顔は柔らかな力で幸村の口を閉ざさせた。夏の夜風が二人の髪を揺らして消える。 幸村にとって、佐助は大きな存在だった。どんなに無謀に思えることでも、佐助が出来ると言ったならばそれは違わず出来た。佐助が大丈夫とさえ言えば、どんな問題でももはや心配には及ばなかった。佐助の力と知識と経験は、いつでも幸村を助けた。幸村は、佐助の背で育ったようなものだった。その背が傷だらけであることに気付いたのは、長じて後のことだった。 「主の他には己の心さえ持たぬ。だから忍は強い。けどね、俺を強くしたのは、間違いなく旦那に会って芽生えた心だよ。それが所詮俺の限界なんだとしても、もういいやって思ったんだ」 何かの拍子に佐助の剥き出しの肌を見て、幸村は言葉を失った。傷を寄り合わせて出来たような細い体は、彼が天才でも超人でもなく、ただ努力して佐助になったのだということを強く幸村に知らしめた。 幸村に「主」としての自覚が出てきたのはそれを契機としていたかもしれない。自分の為に傷つく臣下の忠心に報いねばならぬ、佐助は俺の、俺だけの忍なのだから、と。 居住まいを正して幸村は言った。 「俺はこの通り鈍い男ゆえ、言うに言われぬことも多かったろう。せめて恨み辛みの欠片なりとも聞かせてはくれぬか」 「そんなもんありゃしませんよ」 手元の若葉へ戯れに指を絡めながら、佐助は軽く答えた。幸村は焦れて重ねた。 「無いわけがなかろう。十余年も俺の傍におって」 「ほんとに無いんですってば。あってもその場で言ってますー」 確かに「話を聞け」とか「落ち着け」とかは日々口を酸っぱくして言われているが、幸村が言いたいのはそういうことではなかった。もしや佐助は意味を分かっていてあえてとぼけているのではなかろうか、と幸村が勘繰ったとき、佐助はふと空中の一点に目を止めると何やら思案するような顔をした。 「何かあったか」 勢い込んで訊ねる幸村に、佐助はぽつりと答えた。 「…一度だけ、旦那を妬んだことがあった」 妬む、という言葉はいかにも不思議だった。よく意味が分からず問いかけようとした幸村を、先回りするように佐助は言った。 「あったけど、言わない」 「なぜだ!」 「言いたくないからに決まってるだろ」 当たり前でしょ、とでも言うように佐助は笑うと樹上でぐっと伸びをした。月に手が届きそうだと幸村は思った。 「ぜーんぶ分かっちまうのもつまんないぜ?少しは秘密も持っとかなきゃ」 顔の前で指を揺らして見せて、佐助は話を終わらせた。幸村は低い声で呟いた。 「おれは佐助のことを全部知っていたい」 玩具を取られた子どものような顔と声音は酷く佐助の郷愁を誘った。もう二度と見ることは叶わぬであろう上田の城の庭の情景が、そこで幸村と過ごした日々が、佐助の脳裏で鮮やかに蘇った。しかし佐助は主の言葉をひらりとかわしてこう言った。 「おーおー熱烈な台詞。竜の旦那に言ってみな、あの人のことだ、また単騎でここまで乗り込んでくるよ」 幸村を取り巻く空気が、一瞬にしてざわついた。 「…会えたらいいね」 労わるようなその一言には万感の思いが込められている。佐助の理解と気づかいが幸村には苦しい程だった。幸村の最期の我儘にまで佐助は尽くしてくれるのだ。 震える声で幸村は言った。 「母と早くに死に別れ、親子の縁の薄かった俺にとって、お前は母であり兄だった。お前が配下の忍としての分を弁えていることが、時折悲しくなるほどに、おれはお前に頼り切りだ」 しかし佐助は困ったように何度か目をしばたかせると、常の調子で答えた。 「光栄なことで」 それが嫌なんだという幸村の無言の抗議が聞こえたのだろう、弁明するように佐助は続ける。 「しゃーないでしょ、俺は忍であんたは侍。そうじゃなけりゃ出会えもしなかった。でもね旦那、俺は旦那の忍で幸せだったぜ?」 「佐助…」 思いもよらない忍の言葉は、予期せず幸村の涙腺を刺激した。 「あの泣き虫の弁丸様が、まさか武田を背負って立つことになるなんてねえ…」 「お前のお陰だ、佐助」 しみじみと言う佐助に、顔を伏せながら幸村は答える。 山の端が少し白んできたような気がした。どうかもう少し待ってくれ、と思ったのは幸村だったか佐助だったか、或いは二人ともかもしれない。もう少し、この穏やかな時間に浸っていたいと二人は月に祈った。 戦場から逃げるわけではない。とうに覚悟は出来ている。ただ、自分の人生で最も長く傍にあった片割れと、長い別れの感傷を分かち合うだけの時間が欲しい。 お前のお陰だ、と幸村は繰り返した。今度こそ佐助は、ありがとう、と言った。 「夜が明けるまで、話をしよう」 幸村の言葉が青い闇に染みて広がる。その声に佐助が何と答えたか、知るのは彼の主一人で十分だった。 |