「夏に、会えたな」
政宗の言葉を聞いて、幸村は眩しそうに笑った。燃える落日がその顔を茜色に染め上げ、馬から降りた二人の影は黒く長く地を伸びた。幸村は敗走する西軍の殿として追手と刃を合わせていたはずが、いつの間にか前線は彼を残して移動していた。恐らくあの忍が指揮を執ったのだろうと政宗は察した。
地に打ち捨てられた数えきれぬほどの兵から血の匂いが立ち上る。耳を支配する蝉の声は、もう暮方だというのに真昼と変わらぬものだった。じいじいじいしゃわしゃわみーんみーんじいじいじいじい…兜の内側に籠った熱が汗になって一筋顎先へ落ちた。夕陽を受けた幸村はまさしく燃えているようで、もしや彼から発される熱が自分をこんなにも熱くしているのかもしれないと政宗は考えた。

「政宗様」
言葉少なに進み出た小十郎に、皆まで言わず視線で指示すれば、彼も一つ頷いて後へ続く軍勢を振り返った。小十郎の号令一下、伊達軍は二人を置いて駆け去った。
残された二人は死屍累々と連なる原で、ただ見詰め合って対峙した。政宗は始めて出会った川中島の夕暮れに今の自分たちを重ね合わせていた。騎馬で駆け去る赤備えの青年、その瞳と視線を交わした瞬間に、全ては始まったのだ。
ひと房長い幸村の髪が、戦場の風に煽られて揺れる。それと共に靡く紺青の色を見て、政宗は僅かに口元を緩ませる。
「…何も、申し上げることが思い付かぬ」
地面に刺した槍を取り上げて、幸村は呟いた。その柄はもちろん装束の白いところはくまなく返り血に染まっている。紅蓮の鬼、という渾名がいかにも似合う風体で、しかし幸村の表情は透き通っている。


自分たちを横ざまに照りつける夕陽に、政宗は目を細めた。
「もう、俺たちにはこれしかねえだろ」
涼しげな音をさせて竜の爪を抜き、掲げて見せれば、幸村も同じように槍の穂先を宙へと向けた。互いの刃が触れるか触れないか、ぎりぎりの均衡を保っている。自らの得物と同じように慣れ親しんだ互いの刃。落日を照り返し光を結び、ぎらりと輝いた。
長きに渡る触れ合いの終着点が、その光の中に凝縮されているような気がした。
一瞬、蝉の声がやんだ。
「参る」
「行くぜ」
二人の声は同時だった。

血染めの大地を炎が走った。素早い斬撃を政宗はかわし、一足飛びに幸村の間合いへ斬り込む。それを嫌った幸村が繰り出す衝きの嵐を刀身でなんとか防ぐ。勿体ぶる必要はどこにもなかった。政宗は六本の爪を抜き放ち、獣が前足で獲物を挟みこむように幸村の腹を狙う。稲妻のような剣閃を、一歩引いて幸村は槍の柄で凪ぎ払った。
斬り結ぶたびに互いの白刃が火花を散らす。大きく飛びあがって斬り下げる幸村の動きに、政宗は地を転がって避けると返す刀で背後を狙う。幸村の間合いは目に見えぬ結界だ。踏み込めばあまりの熱さに汗も干上がるようだった。
気付けば二人は笑っていた。振り下ろす剣の一太刀、薙ぎ払う槍の一振りに、言葉にできぬ万感の思いが込められていた。出会えたことの奇跡、共に歩んだ軌跡、その全てを手に取り愛でるような心持だった。
幸村の槍が政宗の兜を弾き飛ばした。一瞬逸れた注意を逃さず、政宗の六爪が挟みこむようにして幸村の首を大地に縫い付ける。しかし幸村は二本の槍の穂先を交差させ、圧し掛かる政宗の首を完全に刃で覆い尽した。


完全な膠着状態が訪れた。どちらかが指先に少し力を込めれば、相手の首は転がっただろう。しかし均衡を破ったのは刃走りの音ではなく、政宗の声だった。
「行くな」
肺腑から押し出した声には生々しい熱が籠っている。跨った熱い体が身じろいだのが手に取るように分かった。
「行くな。死ぬぞ」
思わず幸村へ顔を近づければ、二槍の刃が首の皮を一枚削いだ。幸村はぎゅっと瞼を閉じると、政宗殿、と呟いた。数えきれないほど呼ばれたその響きは、同じく熱い吐息として政宗の頬に触れた。
「某は乱世の武士でござる。太平の世の大名にはなれませぬ」
目を開き、ひたり、と政宗の左目を見据えて幸村は言った。政宗は心の臓が跳ね上がるのを感じた。

「戦乱の最中に生まれ、槍を腕とし馬を脚として生きてきた某には、戦場の他に生きる場所などありますまい。しかし貴殿は違う。貴殿には安らかすべき国がある」
見る者を焼き尽くすような苛烈な瞳に、今はうっすらと水膜が張っている。瞬きをすれば雫となって頬を伝うであろうそれを、幸村は必死に押し留めているように見えた。
「乱世の宴に遅参した某にとって、恐らくこの戦が最後の舞台となりましょう。政宗殿、某は一人の武士として、武士のまま死にとうござります」
お止めくださいますな、と呟いて、遂に彼の瞳の結界は切れた。大粒の涙はぼろぼろと零れて幸村の鼻筋を伝い、大地を濡らした。こげ茶の髪が頬に張り付き、目の周りを赤くした様は青年を年よりずっと幼く見せた。


長く深い溜息の後で、政宗は地面に突き立てた刃を抜いた。幸村も黙って槍を下ろした。寄り添うように立ち上がった二人を、落日の残照が最後の光で照らしだす。いつしか蝉の声はやみ、蜩が途切れ途切れの歌をうたっていた。
「…アンタのことだ、黙って引きやしねえんだろ?」
幸村は笑って答えなかったが、それは言外に是と言っているようなものだった。もとより数で劣っていた西軍は、最大勢力であった毛利の離反が伝えられると、覚悟の無いものから蜘蛛の子を散らすように瓦解していった。残された者たちも善戦したが、物量の差は如何ともしがたく、砂山を削り取られるようにしてその数を減らして行った。
軍を引き大阪城に籠城したところで、もはや余命を幾ばくか伸ばすに過ぎない。そして政宗には、幸村がそれを選ばないこともまた分かっていた。

政宗は幸村の胸元へ触れると、首に下げられた六文へ指を伸ばした。存外に重いその首飾りは、政宗の手の中で硬質な音を立てた。
「六文銭はいつでも死ねるというアンタの覚悟。これが無ければアンタは彼岸へ渡れない――そうだな」
「いかにも」
答えを聞くと、政宗はひと思いにその紐を千切った。驚く幸村をよそに、政宗は手の中のそれを見せながら口の端を上げて笑った。
「待ってろ。俺が行くまで」
「…政宗殿…!」
一拍の後にその言葉の意味を理解して、幸村はただそれだけを吐きだした。政宗の傲慢が、甘さが、優しさが身に降り積もるようだった。幸村は手の甲でぐいと涙を拭うと、言葉を噛み締めるように紡ぐ。
「ならば、できるだけ遅くに…奥羽の山の雪解けの如く、ゆるりゆるりとおいでくださいますよう」
約束でござる、と幸村は笑った。どうだかな、と政宗も笑った。もはや落日の残滓は地平を僅かに照らすのみだった。幸村はひらりと身を翻すと、槍を携え愛馬の鞍に飛び乗った。


「独眼竜、伊達政宗!」
びりびりと地を震わせるような大音声は、自らへけじめを付けようとしているようだった。地に立つ政宗はそれを全身で受け止めた。紅潮した頬、地に染まった腕、焔文様の染め抜かれた袴が馬の鐙をきつく踏み、背で十文字に組まれた皆朱の槍の穂先は空を刺している。円く大きく力強い瞳。紺青の結い紐を付けた焦げ茶の髪が宙に散る。額できりりと結ばれた朱色の鉢巻が、戦場の風を受けて馬の尾のように長く棚引いた。その全てを瞳に焼き付けようと政宗は逆光の中の幸村を見詰めた。
永訣の言葉は必要ない。泉下で再び会うまでの、束の間の暇乞いに過ぎないからだ。
――疾く生き、疾く駆けよ!乱世を一陣の焔となりて、その胸の熱が滾るに任せ、戦国最後の戦の華と散れ!
政宗の心の叫びは幸村の胸を震わせた。幸村は馬首を高く上げるとぐるりと方向を変えた。目指すは徳川本陣のみ。幸村は政宗を見下ろすと、最後の言葉を言い切った。
「真田源次郎幸村、これにて御免仕る!!」