南 天


薄曇りの朝だった。もうすぐ本格的な冬を迎えようという季節、ひたひたと忍び入るような冷気は建具の隙間からやってくるようだった。立て付けが悪いのだろうか、と半兵衛は手元の本から視線を逸らし、障子の方へと目を遣った。
「佐吉、どうしたんだい」
障子に映った小さな影へ、半兵衛は衒いなく声をかけた。途端に影が弾かれたようにこちらを向いたのが分かって、知らず唇に笑みが零れる。彼がいま浮かべているであろう表情までありありと想像できて、半兵衛は再び呼びかける。
「凍えてしまうよ。こっちにおいで」
とんとん、と傍らの畳を叩いてやれば、ようやく細く障子が開いて、隙間から淡い色の髪が覗いた。

「半兵衛様…」
半兵衛の顔を見て気が緩んだのか、佐吉はきゅっと小さな唇を噛むと、それでも一言「失礼します」と告げて室内へといざり入ってきた。始めは障子の前に座ったものの、おいでおいでと招く細い手に導かれるまま、結局は枕辺までやってくる。部屋の中は火鉢と鉄瓶で温められ、佐吉は体の表面を覆い尽くした氷がじわりと解けていくように感じた。
「誰かに嫌なことを言われたのかい?」
栞を挟んで本を閉じると、半兵衛はそれを傍らへ置き、ゆったりとした手つきで佐吉の髪を撫でた。手を持ちあげたせいで、肩に掛けられていた藤紫の羽織が落ちて、背中の後ろへわだかまる。佐吉は小さく声をあげたが、半兵衛は意に介する風でもなかった。そのまま髪を伝い降り、白い頬の泥を拭う。少し傷が付いていたものか、佐吉は無言で顔をしかめた。

「君は強い子だね、佐吉。自分の誇りを自分で守ることができる」
お入り、と言って半兵衛は布団の端を捲って見せた。さすがに佐吉も首を振って畏まったが、半ば強引に引きずり込まれてしまう。半兵衛の体温で温められた布団の中は、じんわりと押し包むように心地よかった。
「でも君は、自分の気持ちを人に伝えることを学ばなければならない」
「人に伝える」
きょとんと見上げた佐吉の顔には、何の邪気も猜疑も無い。自分のことを慕っているのが手に取るように分かるその表情の愛おしさに、半兵衛は知らず傍らの子の肩を抱いた。
「そう。分かってもらうことも必要なんだよ」
「同情などは要りません」
幼子には不釣り合いな厳しさでそう言い切った佐吉に目を細めると、半兵衛は布団を引き上げ自らと佐吉のぬくもりをしっかりと包み込んだ。そして佐吉の耳にそっと唇を寄せると、内緒だよ、と前置きしてからこう言った。

「一度だけ、本当の恋があったんだ」
佐吉はぽかんとその言葉を聞き、少ししてから真っ白な頬を真っ赤に染めた。
「真綿みたいな雪の降る朝、二人で前庭を歩いていた。その時に僕は、ああこれは恋なんだなって分かった。その人は南天の実を手に取って、赤いと言って僕に差し出した。僕は赤い実を受け取って、そうその時なら、言える言葉があったんだ。でも僕は言わなかった。そして今こうして思い出している」
「半兵衛様」
何と言ったらいいのか分からなかったのだろう、佐吉は呼びかけたままきょときょとと忙しなく視線を動かした。半兵衛は、ごめんごめんと笑いながらもう一度佐吉の頭を撫でた。彼は佐吉がそうされるのを嫌がるそぶりを見せながら、その実喜んでいることをきちんと分かっていた。

「君は恋をしたことがあるかい?恋じゃなくてもいい、誰かのことを一心に思い募るような、そんな想いをしたことが」
佐吉は髪を梳かれる心地よさも相俟ってか、黙って身を委ねている。
「佐吉、君のその潔さと一途さは得難い宝だよ。でもその美徳のために、君自身の幸せを損なってはいけない。たったひとつでもいい、本当に大切な言葉を、どうか君は過たずに伝えることができますように」
最後は殆ど祈るように半兵衛は呟いた。半兵衛の雪のごとく白いおとがいを見上げて、佐吉はもう何も言えなくなってしまった。おずおずと半兵衛の袖を掴むと、彼は今更気付いたとでもいうかのように、背後に落ちた羽織を拾って佐吉の肩にかけたのだった。



「半兵衛様」
「どうしたの三成。来てはいけないと言っただろう」
「感染る病ではないと聞きました」
「それでも君に何かあったら」
「失礼します」
半兵衛の言葉を半ばで遮ると、三成はすいと障子を開けて無遠慮とも言える足取りで半兵衛の枕元へと歩を進める。半兵衛は燭台の灯りを頼りにうつ伏せで本を読んでいた。三成の眉根が険しくなる。彼はその場へ座すと、持っていた盆を脇へ置き、脱いだ自らの羽織を布団から出た半兵衛の肩へ覆い掛けた。

きっちりと両の肩を包み込むと、三成は改まった調子で言った。
「どうかお体をお大事になさってください、半兵衛様。あまり根を詰めてはならぬと秀吉様も仰せになっていたでしょう」
「布陣を考えていたんだ。君が初めて指揮を執る戦のね」
半兵衛は顔を上げるとにこりと笑った。その唇から日に日に血の気の失せていくのを三成は誰よりも知っている。三成は胸を押し上げる幾多の言葉に思わず口をつぐんだ。半兵衛の気遣いが身に染みるようだった。
その時半兵衛は、三成が脇に寄せた盆に目をやった。
「かわいい。三成が作ってくれたのかい」
頬を緩ませると半兵衛は、盆の上の雪兎へと白い指を伸ばした。黒塗りの背景に純白の兎、その瞳は燃えるような赤。

「南天の実」
呟いた半兵衛から僅かに視線を逸らして三成は、少し気まり悪そうに言った。
「無聊を御慰めするため、南天を一枝お持ちしようとしたのです。それが途中で家康に会って」
「雪兎になっちゃったんだね」
ふふ、とほほ笑みながら半兵衛は雪兎をちょんと突いた。耳になったのは南天の常盤の緑で、鮮やかな色彩はいかにも目に楽しかった。
「君は総大将、家康くんが副将。僕の最上の策をあげよう。秀吉のために大きな勝ち星を持って帰ってくるといい」
「されど半兵衛様」
三成は生真面目な顔でまっすぐに半兵衛の瞳を見据えて言った。

「半兵衛様が最上を献ずるのは秀吉様ただお一人ではありませんか。私などが賜るには勿体ないものです」
「三成…」
それきり絶句した半兵衛へ、三成は言葉を続けた。
「幼いころ、半兵衛様がお聞かせ下さった南天のお話を、この三成しかと覚えております。『僕は言わなかった』、そう半兵衛様は仰いました。そして私は言うべき言葉を違わず言えるようになれと。半兵衛様」
そこで一度三成は言葉を切り、息を吸った。
「もう仰るおつもりは無いのですか」
室内に沈黙が満ちた。日の暮れて再び降り出した牡丹雪は、しんしんと二人の周囲の音を消していく。

「僕は幸せだよ」
ぽとんと水滴が落ちるように半兵衛は呟いた。
「半兵衛様――」
「それにね、三成」
何かを言い募ろうとした三成の手を、半兵衛は突然強く引いた。思わず布団へ片手を付き身を乗り出す形になった三成の無防備な耳へ、半兵衛は唇を寄せ囁いた。
「南天の話は内緒だよって、そう言ったじゃないか」
ね、と笑って小首を傾げる半兵衛の傍らで、室内の温度に中てられた雪兎はその輪郭を水へ帰そうとしていた。じわりじわりと盆に広がる水たまりは、兎の涙のようにも見えた。