|
「それ以上言っちゃいけない。旦那は聡いお人だ、分かるだろ?」 朧の雲から僅かに顔を出した月が、佐助の半首を硬質に照らした。艶消しの鉄は月光を照らし返すでも映すでもなく、ただ闇の凝ったかのように佐助の細面を縁取る。 「ああ、分かる。俺とてこれ以上言う気はねえ」 夜の底を這うような小十郎の声音が佐助の耳に染み入る。表情は暗がりで見えないが、笑っていないことだけは確かだ。下弦の月がその姿をようよう全て露わした。旦那の背中の柄だよ、と楽しげに言った日が今では酷く遠かった。 それみたことか、と佐助はあの日の自分を罵った。 何から何まで自分の思った通りになった。想いが通じているのなら、現し世で恋の籬は越えずとも良いと、そう互いに誓い合った筈だった。否、今もそう思っている。互いに主が一等大事、ならば己の執着など、ましてや身分違いの男への懸想など、歯牙にすらかける物ではない。 例えてめえであろうとも主と国に何事か為せば一刀のもとに錆とする、と小十郎は言ったはずだ。自分の前で利用されて困るような迂闊なことは言ってくれるな、と佐助はにやりと笑ったはずだ。 大義のために相手を切り捨てる覚悟ははなから出来ていた。それがどうしてこのような、覇王別姫のごとき別離の一幕を、朧月の下繰り広げているのだろう?知れたこと、それが恋って奴だからさ。分かっていたのに飛び込んだ、俺とあんたが愚かだったんだよ。 「――二度と会えねえな」 「戦場では顔を合わすこともあるでしょうよ」 「だがそこに居るのは、俺が馴染んだてめえじゃねえ。違うか?」 「その言葉、そっくり旦那にお返しするね」 くつくつと抑えた笑いを漏らした佐助の、しかし瞳は凪いでいた。自分も小十郎もこの決断に至るまでさして時間はかけなかったはずだ。主君に無体を進言するのに、わが身の埃を払わぬわけにはいかない。ただそれだけの、理に適った考えだ。 二人は同時に口を噤んだ。夜風がざざ、と音を立て、前庭の草木を揺らして行った。月は僅かに雲間に隠れ、まさしく小十郎の長衣の意匠と等しくなった。あの背中を戦場で初めて見た高揚を佐助は思い出していた。 「所詮この世は苦界だよ。さむらいの旦那はさむらいとして死ぬ。ひとでなしの俺はひとでなしとして死ぬ。それでいいじゃない」 呟くように漏れ出した言の葉が、どのように小十郎に伝わったかは定かで無い。ただ、弾かれたように上げたそのいかつい顔の造作に、宵闇のせいではない陰りが落ちた。 「そんな顔して言う台詞じゃねえよ」 小十郎の言葉に佐助は耳を疑った。思わず自らの口元に手を当てる、その不釣り合いなほどに稚い仕草を、小十郎がどんな思いで見詰めているか、考えるほどの余裕はなかった。 「俺様どんな顔してる?」 「さァな」 きっと今の己も同じようなものだろう、と小十郎は独白した。そして、これ程までに情を通じてしまった自分たちを、愚かとも憐れとも思ったが、不思議と後悔の無いことに、静かに驚いたりもした。 小十郎はすいと手を伸ばすと、何の衒いも躊躇いもなく、頬に寄せられた佐助の手を取った。 佐助はその手を払おうとした。しかしそれは適わなかった。まるで背筋を電流が駆け昇っていったかのように、それは強烈な感覚だった。体中の柔らかい肌を、内側から引っ掻かれたようだった。佐助は身じろぎもできずに、己の手を包み込む一回り大きな掌の感覚に酔い痴れる。 想いを確かめ合った後にも互いの肌には指一本触れなかった、それは二人の暗黙の了解のようなものであったが、それがこの局面に置いて唐突に破られるとは思ってもみなかったのだ。 戦と野良仕事で傷つき荒れた男の掌が、佐助の掌を宝珠か何かのように慈しむ。幾多の血と臓物を浴び、姦計を操り毒薬に染まり暗器の仕込まれた掌だ。それをこのように触る人間が居るなんて、佐助は知らなかった。知りたくもなかった。 「俺はね、麻の単衣をさらっと脱ぎ捨てるみたいに、そんな風にこの世からおさらばしたいんだよ。なのにさ、こんなことされちゃったらさあ、ねえ旦那、」 こまるよ、と震える声で佐助は言った。何もかもが想像していた通りだった。肉の厚い手の甲も、ごつごつと節くれだった指の感覚も、短く切られた爪、指の付け根の刀の胼胝、そして掌全体が内包するじわりとした熱さまでも。佐助が"あの掌に触れられたなら"と考えていた、考えてしまったそのものが、今佐助の手を取っていた。 「嘘を言うな」 「ほんとだよ。草の命なんざそんなもんさ」 熱に浮かされたように佐助は言った。その声を聞くや、小十郎は掌で愛でていた佐助の手を顔の高さまで持ち上げた。小十郎の顔をまっすぐに見上げて、初めて佐助は彼の顔に染みだした哀惜と情欲の色を嗅ぎ取った。もし自分もこんな顔をしているのだとしたら、と考え始めてすぐやめた。考えたところでどうこうできる時間もなかった。 「違う。てめえは単衣一枚だってこの世に残す気はねえだろう」 俺はそれが悔しい、と小十郎は言った。そして佐助の手の甲に、ひとつ口付けを落とした。恋の籬のあちらとこちらで目と声のみを交わしてきた、淡泊なようでその実深い二人の想いのやり取りの、これが最後の交歓だった。 |