魚 な り し 頃


けぶるように細かな雨が降っている。しかし空は薄く晴れていて、曖昧に通した日の光は夕暮れ間近の金色だった。柔らかな金色の雨は蜂蜜のように音も無く地上の全てをしっとり濡らす。静かな休日の午後の空は、レースのカーテン越しに部屋の中まで金色に染めていく。いつもは部屋の中にある観葉植物たちも、今はその葉を一杯に天へと広げベランダで恵みを受けていた。
ぱさ、と乾いた音を立てて小十郎は新聞を捲った。窓から入る薄明りに任せ、リビングの電気は未だ付けていない。しかしその柔らかな光が穏やかな時間には好ましく思えた。ソファに腰掛け、ローテーブルへ手を伸ばし、とっくりと文字を追いかけて、満足したら次のページへ。時間はぽとりぽとりと静かに滑り落ちていった。

衣擦れの音がした気がした。そう思ったときには薄く新聞に影が差し、テーブルの隅にことりと揃いのコーヒーカップが置かれた。白地に茶色の線が入ったカップにはブラックのコーヒー、砂糖少々。白地に緑のカップは砂糖無し、ミルク入り。彼にとってはもう数えることも不可能なくらい何度も淹れた、馴染みの分量だろう。
すまんな、と言って茶色のカップに手を伸ばすと、いーえ、と穏やかな声が返ってきた。ヘアバンドで髪を上げた佐助はコットンのシャツ一枚だけで、小十郎の目には少し肌寒そうな出で立ちに映った。彼が小十郎の隣に腰を下ろす、そのタイミングで小十郎も少し脇に寄って佐助が座るスペースを作る。二人分の体重を受けて、ソファが軽く音を立てる。少し袖が長いのかもしれない、手の甲を軽く覆うシャツを気にする風でもなく、佐助は緑のカップに手を伸ばすと、首をすくめるようにして少しだけ口を付けた。


佐助がこのマンションへ越してくる日、迎えに出向いた小十郎がその途中で買い求めたのがこのカップだった。佐助はあまり物に執着する性質ではなかったので、それなりの長さになる二人の関係だったが、それまで形の残るものを殊更に意味付けて持つことは無かった。
買った後で小十郎は、どうしようもなく恥ずかしくなった。こっそり持ち帰り、戸棚の奥の奥に隠しこんでしまおうと考えた。しかし悲しいかな、佐助はそういった秘密の匂いを嗅ぎつけるのが殊更得意な性分だった。待ち合わせ場所に現れた小十郎は、あっという間に荷物の中から美しくラッピングされたペアカップを発見されてしまった。
まさしく「ぐうの音も出ない」と言った風情の小十郎を尻目に、佐助は手の中のカップをまじまじと見つめると、何も言わず小十郎を見上げ、とろけるように笑った。小十郎は静かに驚いた。遥か昔の記憶を未だに持ち合わせている二人だったが、時代と時間は確実に互いを変えて行っているのだ。


長いこと使ったなりに、カップには細かく無数の傷が付いているが、その傷もまた使い込んだ思い出の一つとして愛おしく感じられる。小十郎はきっちりと自分好みの味に整えられたコーヒーを飲みながら、窓の明りにカップを翳した。
その仕草を傍らで見ていた佐助は、静かにカップをテーブルに下ろすと、音も無く小十郎にすり寄って行った。何となくそれを予期していた小十郎もカップを置き、無言で新聞を閉じた。佐助は目を閉じて、そのすっきりと肉の無い頬を小十郎の肩口にぴたりと当てる。ゆるゆると背中に回された手が、今更遠慮がちにセーターの腰のあたりをつまんだので、小十郎はおかしくなって片手で佐助を引き寄せた。中途半端に抱きこまれた佐助はもぞもぞと小十郎の片足に乗り上げ、小十郎の首筋に顔を寄せた。そのまま深く息を吸い込むと、まるで犬猫がするかのように胸元にぐりぐりと額を擦りつけて、満足げに大きく息を吐く。

今更好きだも愛してるも無いけれど、二人は静かに互いに触れ合うのが好きだった。こじゅうろうさん、と殆ど息のような声で佐助が呟くと、小十郎は返事の代わりに佐助を抱え直した。
――小十郎さん、俺、思うんだけどね
囁くような声はセーターに吸いこまれて消えて行く。小十郎は佐助のぱさぱさとした赤毛に何度も指を通して感触を楽しんでいた。
――俺たち、もっとずうっと前から会ってたんじゃないかな。初めて会ったあの時よりもずっとずっと前に
――ずっと前
平安、鎌倉、室町、などとぼんやり考え始めた小十郎の思考を先回りするように、佐助は小さく笑うと言った。
――そう。もしかしたら人間が生まれるよりずっと前かも。いつだったかこんな空をあんたと一緒に、海の底から見上げたような、そんな気がしたんだよ


レースのカーテンを通して差し込む柔らかな光は、なるほど水底から見上げる空に似ている。
あったかい、と呟いた佐助の頬へ戯れに唇を落とすと、乾いた布と石鹸の匂いがした。くすぐったそうに佐助が笑う。小十郎も口元を緩ませると、ソファに深く腰掛けて背もたれに二人分の体重を預けた。胸に覆いかぶさるような佐助の重さが心地よかった。二人の衣擦れの音の他は、キッチンの時計の秒針が進む微かな音しか存在しない。静かで穏やかで満ち足りた、金色の午後の時間。
二匹の魚はそれきり何も喋らず、寄り添ったまま深海に届く光を眺めていた。