し な や か な 腕 の 祈 り


昼食を摂るため移動する生徒たちがグラウンドを横切り、風に乗って音楽系の部活の練習の音が聞こえてくる。まだ日も高い内から帰り支度を整えている自分に少しの居心地悪さを感じながら、三成は眩しい太陽の光に目を細めた。僅かに眩暈がする。頭に熱い靄がかかったように、ぼんやりと考えが纏まらない。立ち止まって荷物を抱え直し視線を先にやると、校門の柱に軽く寄り掛かって立っている人影が目に入った。
考えるまでもなく、彼にはそれが誰だか分かっていた。
「三成!大丈夫か?」
言葉に応える暇も無く、持っていた鞄を奪い取られる。抵抗しても無駄だということは、この男とのそう長くは無い付き合いの中で既に知っていた。されるがままになっていると、手を引かれかねない勢いで、脇に停めてあった自転車へ誘導された。

「…昼練」
「今日は無い!心配するな!」
ようやく一言口に出した三成に、家康は笑って答えた。三成の鞄を前かごに入れて、彼が後ろに座ったのを確認すると、慎重に自転車を走らせる。
「それよりも、体育の途中で保健室に行ったって、どうしたんだ。何かぶつけたとか、落ちたとか」
「持久走でぶつけるも落ちるも無い。単に今日は体調が悪かっただけだ」
「ならどうして体育に出るんだ…」
家康自身も詮無い問いかけだとは分かっているのだろう、言葉の最後は苦笑で消えた。


学生寮で相部屋になって以来、お世辞にも気が合いそうとは言えない二人の交流は、驚く程の親密さにまで発展した。明るく人づきあいが上手く友人も多い家康(三成の変事を家康に伝えるのは、三成のクラスに居る彼の友人たちの気遣いだった)に対して、無愛想で内にこもりがちな三成は、家康が居なければ学校で孤立しかねない程、人間関係の不器用な男だった。同室のよしみとは言え、なぜ家康がここまで三成の世話を焼くものかと、友人たちは内心首をひねっていたが、それは三成自身も同じだった。
「家康、早く戻れよ」
もう間もなく寮に着く。すぐに戻れば昼休みの大半は残っているだろう。しかし家康は意にも介さず的外れな答えを返した。
「うん?儂も粥くらいは作ってやれるぞ。あと、何か要るものがあれば買ってくる。ポカリとアクエリどっちが…」
三成はくらくらと痛む頭を思わず抱えたくなった。

「偶には私以外とも飯を喰え。貴様には友人も多いのだろう。どうしてそう、私ばかり構う」
掠れ始めた声でようやくそれだけ言うと、三成は溜息を吐いた。それが家康の優しさであることなど分かっていた。分かり切っていた。しかしどうして家康がこうまで自分に与えてくれるのか、それだけがどうしても分からなかった。
「どうして私なんだ。貴様にはもっと、たくさん、貴様なら」
「…着いたぞ三成」
静かに自転車を止めると、家康は降りる三成を支えようと手を取った。俯く頬の白さに反して、その掌は燃えるようだった。その動作には全く迷いが無く、三成は自らの必死の問いかけを無い物とされたように感じた。
「熱が出てきたな。熱い」
「家康!」
微かに潤んだ瞳で睨みあげた三成を、家康は予備動作無しに抱き寄せる。


自転車が渇いた音を立てて地面に倒れたが、熱のためか家康の腕に耳を塞がれているせいか、三成の耳にはそれが遠い世界での出来ごとのように思えた。
「家康」
ばかみたいにその言葉を繰り返した三成の視界はすっかり家康の体で覆われてしまった。身長は同じようなものなのに体格では家康の方が大きく勝っていて、両腕を封じられた三成には為す術など何もなかった。
「儂はお前を幸せにしたい」
普段なら何の冗談だと言いたくなるほど滑稽な家康の言葉も、非日常の耳で聞くと真に迫って聞こえるから不思議だ。
「何故」
小さく問い返した三成を、家康はぎゅうと抱きしめた。男に抱きすくめられている状況にあまり動じない自分に三成は今更気が付いた。この腕の力を、胸の温もりを、自分はどこかで知っていたような気がした。

「儂はいつかお前を――」
囁くような声で家康は言い掛けたが、途中でやめてしまった。家康は未来の話をしようとしたのだ、と三成は思った。家康の「いつか」が過去を指すものだと気付くはずなどなかった。なにせ彼らは入学式で顔を合わせたばかりの十六歳の少年だったので、それ以上前の歴史など持ち合わせるはずがなかったのだ。
忘れてくれ、と家康は言ったが、三成は小さくかぶりを振った。意味は分からなかったが、彼が何か大事なことを言い掛けたのは分かった。
「でも三成、儂はお前を幸せにしたい。お前の喜ぶ顔が見たい。お前の求める物が叶えられるように、いつも祈っているし、そのために儂ができることは何でもしてやりたいと思っている。これは本当だ。信じてくれ」
家康の声が僅かに震えていた。


「分かった」
三成の短い答えに、家康は驚いたように声を漏らした。
「信じてくれと言ったのだろう。分かった。私はお前を信じる」
「三成…」
家康はほんの少し戸惑ったのち、抱きこめる腕の力を一層強くした。苦しいと思ったが、三成にはその腕の強さが何だか酷く懐かしく、心地よく思えた。頭を家康の肩口に預けるようにすると、安心感はいや増した。何か家康に言ってやりたい気がしたが、胸の奥を探ってもまるで霞を掴むように"何か"は形にならなかった。仕方が無いので三成は、ほんの些細な要求を口にした。
「…ポカリがいい」
たわいもない言葉だったが、三成が自ら何かを家康に望んだのはこれが初めてだった。

家康はぱっと瞳を輝かせると、三成の肩を支えて寮の中へと入って行った。打ち倒された自転車は暫くの間気付かれることなく中天の太陽に晒されていた。