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寒さに首をすくめて空を見上げれば、染み一つない抜けるような蒼が広がっている。この季節らしい冷たく乾いた風がビルの狭間から吹き付けてきて、元親は思わずコートの襟を立てた。休日の午前中だというだけで世界が眩しく感じられるのはなぜだろう。笑いながら走ってくる子どもたちの後ろに若い両親の姿を見つけて、自分と同じように世間も正月休みに入ったことを実感する。 元親は子ども好きだ。子どもの方もそれが分かるのか、近所の子などにも自然に懐かれたりする。しかしそのことを殊更口に出して言うことはしない。元就が気に病むのを知っているからだ。 気に病む、という言葉には語弊があるかもしれないが、たぶん元就は元親の未来を狭めてしまったことに関して、程度の多寡はああれ思うところがあるようで、この手の話題では極端に口数少なになる。元親としてはそんな大層なことを言う気はさらさら無いのに、元就が勝手に思いつめてしまう。しょうがないので二人の間で家族やら子どもやらという話題はささやかな禁句になった。 俺ぁ何も気にしてねえのによ、と心の中でぼやきながら、元親はポケットから紙片を掴み出した。チラシを切った裏紙に書かれているのは元就直筆の買い物メモだ。今日から休みに入った元親を待ちかねたように彼は本日大掃除の決行を高らかに宣言したのだ。だからメモの内容は大半が掃除用具で、残りは餅だの酒だの正月用の食料品である。 俺一人にどんだけ持たせりゃ気が済むんだか、と思いつつも足早になるのは、寒さが半分と待ち切れずにもう掃除を始めているだろう元就のことを思ってが半分。その辺のペンを使って書いたのだろうに異様な達筆で示された「バスマジックリン(詰め替え用)」を求め、とりあえず元親は手近な薬局へ向かう。 すると、店の入り口で座りこんでいる女性を見つけた。艶やかに長い黒髪が地面に散らばっている。その白く細い頬に、元親は物を考える前に動いていた。 「おい、アンタ大丈夫か」 優しく肩に手を置き問うと、女性はゆっくりと元親を見上げた。それは想像した通りの顔だった。 「遅い!どこで油を売っておったのだ!!」 できるだけ静かに鍵を回したものの、玄関でハタキを持って仁王立ちになっていた元就には関係の無いことだった。確かに買い物に出ると言ってから二時間超、近所の商店街で済む用事にしては遅い帰りだろう。 「悪ぃ悪ぃ、はいコレお土産」 「…これしきで容赦する我と思うてか」 ぽんと手渡したのは有名菓子店の焼き菓子詰め合わせで、元就は苦々しい顔を崩しはしなかったものの、機嫌がかなり向上したのは何となく雰囲気で察せられた。 「掃除が終わったらこれを食す。元親、キリキリ働くがいい」 「へいへい。どっからやる?」 「台所の換気扇とエアコンのフィルターを外して洗え。ああいうのは得意であろう」 単に高所の作業を押し付けられただけのような気がするが、確かに部品とか組み立てとかそういうことに関しては自分の方が得手だろうと元親は自分を納得させた。 元就はと言えば、テレビ台の上にぱたぱたとハタキをかけている。何とも堂に入ったその動作に目を細めながら、元親は腕まくりした。 対角線上の窓を開け放すと、気持ちよく風が流れる。洗ったフィルターの水を台所で切っていると、リビングのワックスがけを終えたらしい元就が手を洗いに来た。少し寄って流し場の前にスペースを空けてやると、元就は隙間から手を伸ばすようにして手の汚れを洗い流す。後ろにかけてあるタオルで手を拭きながら、元就は言った。 「聞くか聞かぬかこれでも迷ったのだが」 「あ?」 良く分からない言葉に元親が片眉を上げる。手を拭き終えた元就は、冷静な表情で元親と対峙した。 「あの菓子、誰から貰うた?」 「この近くにあの店はなかろう。よしんば近くの支店まで電車を乗り継ぎ買いに行ったのだとしても、そこまでする理由が貴様には無い」 淡々と紡がれる言葉に、元親は「しまった!」という焦りと「こいつは本当に菓子が好きなんだなあ」という妙な感心の入り混じった、実に珍妙な表情をした。それに機嫌を損ねたのか、元就はきっと元親を睨み上げ、「我には言えぬ理由なのであろう」と居丈高に言い放つ。 そう広くも無い台所の片隅での膠着戦は、何の意外性も無く元親の敗北に終わった。元親は片手を頭の後ろに回すと、大した話じゃねんだけどよ、と軽く溜息をついた。 「薬局の入り口で女の人が座りこんでてよ、大丈夫か〜って聞いたら気分悪いって言うわけ。で、旦那に迎えに来てもらおうかと思ったら仕事行ってるって言うし、しょうがねえから家まで連れて行って、お茶ご馳走になって帰ってきた。菓子は帰り際に貰った」 「…」 元就の目から溢れだす不信感と警戒の色に、元親は慌てて両手を振る。 「いや、疾しいこととか何もしてねえよ!?疑うならホラ電話番号とか聞いてきたし」 「見知らぬ女の家に上がり込み連絡先まで教えられて帰ってきたか。さぞや手厚いご歓待を受けたのであろうな?」 いつの間にやらハタキを手に取りぱしんぱしんと弄んでいる元就には往年の気迫が戻っている。万事休した元親は、遂に自白を始めた。 「お市サンだ。織田のおっさんの妹」 「――あの禍々しい女か」 驚いたように言った元就は、どうやら昔彼女のことをそう好ましく思っていなかったらしい。 「いや、今は普通の人妻。俺のことも覚えてなかった。まあそう接点があったわけでもないけどよ。警官やってる旦那様は年末年始関係無く御出勤だそうで、随分感謝されちまった」 あいつか、と同時に思い浮かんだ予想は多分合っているのだろう。何とも縁の深いことよ、と自分達を棚に上げて思う頃には元就の殺気も殆ど消えていた。 危なかったがこれで切り抜けられた、と内心胸を撫でおろした元親だったか、ふいに元就が問いかける。 「しかしそれなら、病院に連れて行くべきではなかったのか」 思い付いた、とでも言うように零した元就の言葉がこの話の確信を抉った。元親の感情はよほど顔に現れていたようで、元就は少し笑った。 「腹の子はやはり女か?」 「…いつから分かってやがった」 忌々しげに元親が零すと、元就はからからと笑って答えた。 「なに、つい先ほどよ。あれだけ隠そうとした割に、話が美しくまとまっておったからな。まあもとより貴様が他の女と乳繰り合う程の甲斐性持ちとは思っておらぬ」 ほっとしたのと悔しいのとで、元親は歯噛みしながら手に付いた水を元就の顔にかけてやった。 どこもかしこも磨き上げられた部屋で味わう紅茶は格別だ。お茶受けが高級な菓子なのもまた「褒美」という感じがして良い。そんなことをうっとりと呟く元就を眺めながら、元親は行儀悪くずずずと紅茶をすすった。 元就は全くがっついていないように見えるのに、驚くほどの速さで菓子を平らげて行く。元親の皿へ手が伸びるのも時間の問題だろう。気を揉んだ俺が可哀そうだ、などと独りごちる元親へ、元就は穏やかな調子で言った。 「我は昔も今も貴様の血筋を絶やすのだな」 「…もうその話はいいだろうよ」 前言撤回、だから言いたくなかったのだと元親は元就の目を見据えた。 「俺ぁアンタ"で"良いなんて思ったことは一度もねえ。アンタ"が"いいんだ。他の選択肢なんてハナからありゃしねえ」 元就の目が僅かに揺れた。ここぞとばかりに元親が攻め込む。 「アンタがどうかは知らねえけどよ、俺は今の生活に満足してる。幸せだ。アンタがそうやって気に掛けると、俺ァ俺の幸せを否定されてるみたいで辛えんだ」 「…やめよ、馬鹿者」 言葉の渦に耐えかねて、元就が目を逸らした。普段口の達者な彼は、直截な言葉を浴びせられるのに滅法弱い。もはや砂糖も溶け切ったであろう紅茶のカップを手に取ると、音をたててかちゃかちゃとかき混ぜながら言った。 「貴様独りでは飽き足らず、貴様の未来や子子孫孫までも我は喰い尽すのかと思うてな。少々自分の強欲さに眩暈がしておったのだ」 目を伏せた頬には僅かに血の色が乗っていて、元親は背筋をぞくりと情欲の這い上がるのを感じた。これはとんでもない殺し文句だと元就は気付いているのだろうか。 「…嫉妬深いアンタもたまんねえな」 「下衆が」 ようやく呟いた本心は一言のもとに切り捨てられる。どうやら元就のサービスタイムは終了したようだが、火を付けられた元親としては堪ったものではない。無言で席を立つと、テーブルを回って元就の手を取った。最初はきょとんとしていた元就も、元親から発散される艶めいた雰囲気にカッと頬を染めた。 「テーブルを畳んで炬燵を出すのではなかったか」 「後で」 「明日には真田達が来るのであろう」 「だからだろ」 ぐっと言葉に詰まった元就をひょいと抱え上げると、元親は寝室の扉を足で開けた。ベッドの上に元就をころがし、開け放っていた窓をカーテンもろとも閉めると、一気に部屋は夜になる。今は眩しい午後の光もにぎやかな子どもたちの笑い声も、二人にとっては邪魔なだけだった。 |