1 2 月 2 8日


「はーい今年もお疲れさまでした、と」
「何回目だ、それは」
佐助によって遠慮なくなみなみと注がれる日本酒に、小十郎は思わず声を出した。彼らはもう四日程この旅館に滞在しているのだ。満々と酒を湛えた銚子を卓に置くと、佐助から徳利を受け取り返す刀で注ぎ返す。零れる零れる、と眉を寄せて佐助は笑った。旅館の名が入った浴衣の袂から、普段はあまり見えない彼の腕が見えた。思わず見入っているうちに本当に零れたらしい。だが、ああもう!などとぼやきつつ卓を拭く佐助に怒気は見えない。

一般的な企業の正月休みは29・30あたりから始まるものだろうが、小十郎は今年、少し早めから休暇を申請した。佐助を連れて二人旅。少々強引に話を進めたが、最後には佐助も根負けして休暇を調整してくれた。
もっとも佐助はあまり旅行に興味が無いらしく、何日も家を空けるような本格的なものは修学旅行以来だというから驚きだ。ならば、と観光ではなくひたすらのんびりすることに決めて、少々奮発した宿を探した。普段が暮らしぶりの慎ましい二人のこと、ここぞと思いきったらあれやこれやと願望が出てきて、結果的には名の知れた老舗旅館にご宿泊と相成ったのである。
離れの部屋、座敷、部屋食、眺望、内風呂と専用露天風呂。贅沢の半分くらいは二人きりで過ごすためのものであることにお互い途中で気づいてはいたが、あえて指摘はしなかった。今更だ。

そうこうしているうちに、座敷には次々と夕食が運ばれてきた。山の中の宿にも関わらず活造りなども並ぶあたりに、豪華さが伝わってくる。
「ああ、上げ膳据え膳!これこそ殿様気分、ってね」
「こんなに良いモン食ってなかったがな」
「あらヤダそういやアンタも殿様だったね」
四日間変わらず感動し続けた佐助と軽口を叩き合いながら、小十郎は居並ぶ料理に箸を伸ばした。見目も麗しく味も華やかな料理は、それだけで非日常を演出する。明日には帰らねばならないが、それが少し惜しいと思える程に、静かで贅沢な時間だった。


雪灯りの照り映える庭では、雪洞に火が入れられて神秘的な風景を作り上げている。古民家を改築して作ったらしい宿のこと、今自分達が相対しているのがいったいいつの時代なのか、ふと失念したりもする。
佐助はといえば、いちいち料理の盛り付けや味付けに感心しながら楽しげに食を進めている。ずっと眺めている小十郎に気付いているのがいないのか、くるくると表情を変えながら美味しいねえと繰り返す姿に、言いようの無い満足感を得る。
思えば彼と差し向かいで同じ食事を摂ることなんて初めて出会った時には出来ないことだった。そうだ、先ほど垣間見た彼の腕に感じた違和感、それは傷一つ無いその肌が、遥か昔の記憶と食い違ったからではないか。

そこまで考えて小十郎は箸を置くと、銚子の酒をぐいと呷った。すかさず佐助が徳利を傾ける。酒を受けながら小十郎は言った。
「楽しいか?」
「楽しいですよ?皆が旅行旅行っていう気持ち、分かった気がするわ」
「…良かった」
佐助の表情に偽りは無い。否、佐助が表情を偽る必要性などどこにもないのだ。佐助が本当に泣いて、本当に笑える世界に、彼らは今生きている。
「あっ、雪」
言うなり食事中だというのに佐助は立ち上がり、窓枠越しに空を見上げた。


普段ならこういうことをするのは幸村であり、もっぱら佐助はそれを諌める係なのだが、小十郎と二人きりのとき、彼は不思議と子どもっぽい。そのことを考えた末、甘えられているのだと彼が理解したのは結構最近のことである。
「明日の朝まで降るかなあ。山降りるのが大変になっちゃうね、小十郎さん」
そう言いながら振り返った佐助はうつくしかった。雪洞の明りに頬を照らされ、暗い窓辺に降る雪を背景にして、まるで一幅の絵のようだった。小十郎は僅かに息を吐くと丁寧に箸を置き、立ち上がって傍らへ歩み寄る。
「小雪だ。明け方には止むだろうよ」
言いながら肩をそっと抱き寄せると、佐助は全く無抵抗でその頭を預けてきた。

「冬じゃなけりゃ、散歩でもして朝風呂浴びて帰るってのもオツだったろうにな」
「湯ざめしちゃうよねえさすがに」
佐助はかたんと錠を上げると、薄く窓を引いて掌を外へ出した。爪の先ほども無い、小さな、淡い雪の粒が、佐助の肌に触れてじわりと溶ける。凍りつくような夜気と澄んだ水の香りが、二人の顔を撫でながら室内にひたひたと入りこむ。
宵闇を泳ぐ佐助の掌はまるで幻燈を見ているかのように儚げで、小十郎は思わず肩を抱く手に力を込めた。しんしんと雪が舞い落ちる。佐助に落ちて水になる。暖かな室内と凍えるような夜空の狭間には、濃密な時間が流れていた。
ひとしきり雪を愛でると、佐助は静かに窓を閉めた。冷えてしまった佐助の頬を太い親指ですいと撫でると、小十郎は視線で「どうした?」と問いかけた。


「ちょと、帰りたくないなあなんて、思っちゃったりして」
笑いながら言った佐助に一瞬小十郎は同調しかけたが、しかしふと思い付いた言葉を投げかけた。
「俺はお前の料理の味も恋しくなってきたがな」
炎に映える赤毛に手櫛を通しながら言ってやると、佐助はへへっと笑ってから、ありがとね、と呟いた。
「小十郎さん、そんなに優しくて疲れない?」
「どういう意味だ」
心底怪訝そうに問い返した小十郎に、佐助はまた笑って言った。
「あんたが良い男だってことさ」