文 月 の 舟


沈んで行く夕陽を見ていると、ああ一日が終わるな、と思う。その少し感傷的な、しかし満ち足りたような気分が元就は嫌いではない。ビルの谷間や山の稜線を等しく撫でて地球の影へ引き上げて行く太陽。それを悲しみでも寂しさでもなく見送れるようになるとは、自分自身思いもよらないことだった。
最後に鮮烈なオレンジの輝きを残して、今日の太陽はその姿を隠した。元就はゆっくりとソファから立ち上がると、窓辺へ歩み寄りレースのカーテンに手を掛けた。郊外のマンションの高層階からは、駅からなだらかに下りながら続く道が、まるで絵画のように見通せる。薄いカーテンを引いてリビングへ戻ろうとした元就の目の端に映ったのは、その道をこちらへ向かってくる何やら異様な影だった。

最初は樹木の化け物と目したそれが、何やら大きな植物を抱えた同居人であると気付くまでにそう時間はかからなかった。あやつは何をしておるのだ、と半ば呆れながら思ったものの、ふと今日の、厳密には昨日の暦を思い出して元就はなんとなく納得した。
常日頃ならば「駅から電話を寄越せと何度言えば分かるのだ」と不機嫌になるところだが、今日は返って都合が良かった。そういうことならばカレーは明日に回すとして、今日の夕餉はそうめんだ。薬味はあっただろうかと台所へ向かいながら、我も大概付き合いが良くなったものよと少し可笑しくなる。冷蔵庫の中身と睨めっこしながら、付け合わせには魚でも焼くか、などと頭の中で計画を立てて、元就は七分丈のシャツを少し捲った。



「おー、意外と風が通るな」
先にベランダに出た元親は、安っぽいビーチサンダルを足に突っ掛けて元就を振り返った。その片手には見事な枝ぶりの笹が抱かれている。
「下に落とすでないぞ」
これを使うが良い、と元就が差し出した荷造り用のビニールテープを、さんきゅ、と鋏ごと受け取って元親はその笹をベランダの手すりへ固定した。そう広いわけでもないベランダには元々サンダルはひと組しか用意していない。玄関に回って取って来たのだろう、元就はコンクリートの床に外履き用のサンダルを置いた。
一日遅れの七夕の夕餉は存外に楽しかった。食卓に並んだ料理を見た元親は、すぐに事の次第を察したようで、驚かせてようと思ったのにと少々悔しそうでもあったが。

建設予定地の下見に行った折り、今まさに伐採されていく笹を見てぴんと来たのだという。七夕は昨日だったはずと同業者たちには笑われたが、立派な笹をそのまま見捨てるのも勿体なかったのだと元親は言った。彼の性分を嫌というほど理解している元就は、取り立てて褒めも貶しもしなかった。それよりも、捨てるために纏めておいたチラシや包装紙から使えそうな物を選別する作業が忙しかったのだ。
元親が笹の準備をし、屋外用の椅子を運んできて据え付ける間に、元就は即席の短冊と筆ペンを二本、そして冷蔵庫からチューハイなど持ってきて、ベランダに出ると後ろ手でサッシを締めた。
リビングの照明がほの赤く二人を背後から照らす。都心から離れた夜空には、満天の星と上弦の月が輝いていた。


本日二度目の乾杯をしてチューハイのプルタブを開けると、ぷしゅっと爽やかな炭酸の香りがした。笹の葉が風に吹かれてさやさやと音を立てる。ごくごくと音を立ててジュースのような酒を飲み下すと、元親はいかにも旨そうに息を吐いた。
夏の風は夜になっても熱の名残と草いきれを運ぶ。微かに感じる青臭い土の香りが非現実感を盛り上げていた。
「短冊書こうぜ」
チューハイを床に置いて手を差し出した元親に、元就は適当な色の紙と筆ペンを渡した。自分も一枚紙を取り上げ、さらさらと文字を書きつける。『おりひめ』『ひこぼし』『天の川』…いつまで経っても彼の筆遣いは几帳面に美しかった。
書きあげた短冊を笹に結び付け、出来栄えを見ている元就へ、元親は楽しげに声をかけた。

「どうだ?」
――キャンプに行きたい
短冊に書き殴られた直截な願望に、元就はびしりと言った。
「却下」
「考えるくらいしてくれよ…んじゃこっちは?」
――キャンピングカーが欲しい
「散れ」
一瞥した瞬間に言い放った元就は、呆れ顔で元親を見遣って言葉を繋げた。
「これ以上乗り物ばかり増やしてどうするのだ。というか貴様、それは単に欲しい物であろう」

意味が分からず元親は問うた。
「願い事を書くんだろ?」
「技芸の上達を願うのだ。なんでもかんでも言えば良いというものではないわ」
こき下ろされた元親は唇をとがらせながらもさっさと短冊を笹に結んでしまった。その様を睨む元就に弁解するように更に短冊を手に取る。
「いいじゃねえか、こんなに書いたんだしよ」
「二兎を追う者は、と昔から良く言うておるぞ」
「んじゃこれだけでもいい」
一際鮮やかな短冊には、短く黒々と元親の願望が書かれていた。


――元親って呼んで欲しい
元就の持ったチューハイの缶がぺこっと凹んだ音がした。その静かなリアクションを無言の否定と受け取って、元親は肩を竦めて笑った。
「まあ別に、いいけどよ。ってかあんたはねえのか、欲しいもんとかやりたいこととか」
言いながらベンチに座った元就の膝を見れば、数枚の短冊が置いてある。
「なんだ書いてんじゃねえか。どれ」
「触るな下種め。書き損じぞ」
ほれ、と見せられたのは確かに書き損じらしく(元親には綺麗な字に見えたのだが)、七夕の決まり文句の上から大きく×が書いてある。

しかし元親は数枚重なった短冊の、一番下をあえて引っ張り出した。元就も素早く防御に転じたが、一瞬の差で紅の紙が夜空に翻る。元就はすっくと立ち上がると、無言でサンダルを脱ぎ捨てリビングに入って行った。
短冊を一瞥してから、元親は部屋の中へと声をかけた。
「おーい、これ、あんたの願い事ってことでいいのか」
「知らぬ」
「あ、それとも欲しいものか?」
多分に隠しきれぬ笑みを含ませながらそう言うと、引っ込んだと見えた元就は足音も荒く戻ってくるなりサッシを締めて鍵を降ろした。

「ちょ、毛利さん!?」
「朝日が出るまでそこに居れ。そして焼け焦げよ」
極めつけにカーテンまで引かれて足音は遠ざかって行った。途方に暮れた世帯主は、思わず手の中の短冊を見返す。
――元親
一画一画、噛み締めるようにそれだけ書かれた短冊は、ビル風に吹かれて頼りなげにはためく。彼の筆致で書かれた己の名前は妙に胸に迫るものがあった。元親はその短冊を笹の一番上に結び付けた。これなら星からも良く見えるはずだ。
ベンチに座ってぬるくなったチューハイを飲み干した頃、ごく小さな音で、そろそろとサッシの鍵が回るのが分かった。眉尻を下げて元親は笑った。天の川を上弦の月が渡って行く。この分では、きっと明日も晴れるだろう。



お野菜、誕生日おめでとう 0729