第 四 夜


兵士の話/小十郎、心中の話/光秀、幽霊の話/政宗、暗闇の話/市

兵士の話


――政宗様の初陣が済んだばかりの頃だから、もう十年近く前になるか。俺たちは国境で戦をしていた。先祖代々続く土地の奪い合いに今日こそ決着を付けるのだと意気込んでな。しかしそれは相手方も同じこと。雪がちらつき始める季節、これを逃せば来年まで雌雄を決する機会は無い。

――予想通り熾烈な争いになった。先鋒を任された俺の隊は、少しでも突破口を開こうと、それこそ捨て身で戦った。返り血で柄を握る手が滑れば、殴り飛ばして首を落とした。礼儀も作法もなっちゃいねえ、野武士同士の殺し合いだ。俺は肩で息を吐きながら、血の滴る首級を掴んで汗を拭った。


――その隙を突くようにして、視界の端から切りこんで来る男があった。防具もまともにつけていない、粗末な身なりの雑兵だ。顔は全く覚えちゃいないのに、血の気の失せた唇を半ば開いて呼吸していた、その何か切迫した雰囲気だけは頭にこびりついている。俺は思わず首級を投げつけた。しかし男は全く怯まず一直線に向かってきた。

――済んでのところで初太刀を受け止めた。刃は零れ鉄さびの浮いた憐れな風情の刀だ。剣筋も何も無い、ただ全力で打ちおろされただけのそれを、俺はいなして胴に打ち込む。愛刀はまるで水面を切るように、滑らかに男の肉を裂いた。この掌は、今でもその感触を覚えている。男はゆっくりと地面に倒れ、二度と動かなかった。

――俺は念の為一度足で蹴り転がした。懐から汗茶けた守り袋が覗いている。滲んだ文字は「兵」と読めた。兵衛か、兵太夫か、きっとそんな名だったのだろう。そうしている間にも別の敵が現れそちらへ掛り切りになった。粗末な身なりの雑兵のことなど、もう思い出すはずもなかった。…そして、数年が流れた。


――ある戦勝祝いの宴で、俺は仲間とくだらねえ話をしていた。その時に、仲間の口から思いがけない名を聞いた。「兵」の守り袋の雑兵。気の緩んだところに切りかかられてな、危ない所であったわ、と仲間は呵々大笑した。しかし粗末な身なりの男であった、敵方の揃いの布印も付けておらなんだが、勘違いをした農民ではあるまいな。斬り捨ててやってそれでは胸糞が悪い、とも。

――俺の頭の中に嫌な符牒が残った。気のせいだと分かっちゃ居るが、どうにも俺の中で仲間が斬り捨てた男と昔俺が殺した男が同じ奴のように思えてならなかった。しかし詮無い妄想だ、時間が経つうちに忘れて行った。なにせ、戦のたびに十人百人をこの手は斬るのだ。一人のことなど覚えていられない。

――だからこの話を思い出したのは、気の置けないダチとの怪談話の席だった。一人が言ったんだ。「死に続ける兵士の話」。何度殺されても戦に現れる雑兵、それと出会った者は早晩呪い殺される、とな。俺は勢い込んで訊ねた。それは有名な話なのか、その男は守り袋を提げているか、と。俺の雰囲気を察したのだろう、仲間は怪訝な顔をした。

――奴に話を教えたのはとうに隠居した爺さんだということだ。守り袋については知らない、と首を振った。俺はその爺さんに会いに行くことにした。何も呪いを畏れたわけじゃねえ。早晩死ぬというが、もう俺が「兵」の男と会ってから五年以上が経っている。ただ、俺は確かめたかったのだ。


――俺の訪いを受けた爺さんは、俺の話を静かに聞くと、一呼吸置いて語り出した。儂が「兵」の男に出会ったのはもう五十年も前になる。貴殿と同じくふいを突かれて斬り結び、済んでのところで競り勝った。死骸の胸には守り袋と兵の文字。なるほど、今でもあの男は戦場を彷徨うておるのですなあ。

――感慨深げに言う爺さんに俺は聞いた。早晩呪いを受けると聞いたが、俺も爺さんもこの通りぴんぴん生きている。爺さんは言った。それは孫の覚え間違い、儂が言ったのは負けたら殺される、という当たり前のことだけだと。殺された奴が居るのか。聞いた俺に爺さんは言った。居る。儂の親友だった。

――あの男だ、と思った時には、親友は斬りかかられていた。儂は親友に駆け寄ると同時に、男の顔を見た。血の気の失せた唇が、驚きにわななくのを見た。首から下げた守り袋に兵の文字。奴は自らの刀から滴る血に、驚いたように柄を手放すと、一目散に逃げて行った。儂は親友を殺された怨みも忘れて、ただその様を見守っていた。

――だって悲しいだろう。殺されてもまた戦場に来て、殺したと思ったら驚いて逃げる。片倉殿、貴殿の考えはきっと正しい。恐らくあれは誰かの亡霊などではない。戦場で死に、自らが死んだことにも気付けていない、貧しい雑兵たちの記憶が寄り集まったようなものだろう。どうにか戦功をあげて家族を養わねば、生きて里へ帰らねば、そんな男たちの執念のなれの果てだろう、と。


――隠居所を辞して返りながら、俺はぼんやり考えた。俺が斬った幾千もの兵士のうち、いったいどれだけの数が往生し、どれだけが「兵」の一部として今も戦場を彷徨うのかと。死ぬまでは個々の名を持ち故郷と家族を持っていた者らが、死して後には「兵」として果てない時間を生きる。慣れぬ刀と粗末な具足を身に付けたままで。

――今度会ったら故郷に帰れとでも言ってみるか、なぞ思っているうちこれだけの時間が過ぎた。「兵」は居なくなったのか…まあ、爺さんの若武者時代から居る奴がそうそう消えるとも思えねえ。せいぜい俺は「兵」にならねえよう、満足して死にてえもんだな。













心中の話


――あれはいつの話でしたかねえ…長雨の季節、私はさる村に逗留していました。もちろん、旅の僧侶としてね。村の方々は歓待してくださいましたよ。私には勿体ない程の扱いでしたので、宴などは辞して、借り受けた部屋でくつろいでいました。その時、戸口の方で何やら騒がしい物音がします。興味を覚えてふらりと出て行くと、ずぶ濡れの若い男女が土間で畏まっていました。

――どうか一夜の宿をお貸しください、と二人は言いました。男の方は上等な仕立ての服を着た凛々しい若侍、娘は艶やかな着物を着た…やはりあれは女郎でしょう。隠しきれない婀娜めいた雰囲気がありましたから。明らかに尋常ではない二人の姿に、応対した家の主も困惑顔でしたが、私の顔を見るなり二人を待たせたままで小さく耳打ちしました。

――こんな雨のなか、ここまで歩いて辿りつくなど、よんどころない事情があるのだろう。泊めてやるから和尚様から事情を聞いてくれませんか、と。なるほどねえ、と思いましたよ。こういう場に引っ張りだされるのも僧侶の務めというものでしょう。よろしいですよ、と答えたならば、主はほっとしたような顔で二人の元へ戻って行きました。


――聞けばなんとも通俗的にして普遍的なお話でした。由緒正しき武家の跡取りと廓の御新造との恋物語。やがて秘密は周囲に漏れて、手に手を取って駆け出す闇夜。人目の無い方無い方へ、と彷徨ううちに、この片田舎へ辿りついた、と。話す間も二人の手は固く繋がれておりました。

――私はどうにか口元の笑みを堪えながら、二人に言って聞かせました。お二人の決意はよぉく分かりました。どうでしょう、ここから若様のご実家へ早馬を出し、ご家族においで頂いては。この山深い里まで歩いて来られた思いの強さを分かって頂ければ、無碍な御裁きはありますまい。もちろん、私もお口添えを致しますからと。


――その夜のことでした。女中のつんざくような叫び声で私は目を覚ましました。逸る気持ちを抑えながら部屋を出てみますと、同じように人が集まり始めています。私は腰を抜かした女中に近寄ると、彼女の視線の先を見ました。そこには艶めかしい女の足が、襖を突き抜けて廊下へと晒されていました。

――白い足がびくんびくんと痙攣する様を見て、ようやく人々は事の次第に思い至ったようでした。慌てて男衆が襖を外し女の足を抜き取ってみると、室内は思った通りの光景でした。すなわち、延べられたひと組の布団の上に横たわり、きちんと身なりを整えて絶命している男と、畳の上に吐血を撒き散らし悶絶する女。

――枕元に散らばった薬は恐らく鼠殺しの毒でしょう。暴れる女を取り押さえようと人々は奮闘しますが女は言うことを聞きません。ただ焼けただれた喉を振り絞って「たすけて、たすけて」というばかり。この村に医者は居ませんし、山一つ越えて呼びに行くには夜道は険し過ぎました。人々は狂乱する女を前に、手をこまねくことしかできませんでした。


――女の口元は吐き戻した毒薬で爛れていました。恐らくそれが彼女を死に至らしめなかった原因でしょう。しかしそれは、彼女の苦痛をいたずらに伸ばすだけでした。たまりかねて村人の一人が「殺してやろう」と言いだしました。しかしそれを別の者が止めました。余所者のためにお前が手を汚す必要はない、放っておけばいつか死ぬ、と。

――議論する人々の傍らで、徐々に女の呼吸は鎮まって行きました。しかし彼女は死にませんでした。夢とうつつを行き来しながら、淺い息を繰り返しながらも生きていました。やがて人々は結論を出しました。自分たちはあくまで善意の第三者である、今後のことは連絡を受けて駆けつけるであろう男の家族に任せよう、と。

――不思議な光景でしたよ、死んだ男と生きている女が、一つ布団に寝かせられているのは。そう寒い季節でもありませんでしたから、男の肉体の変化はじわじわと進んで行きます。肌はぶよぶよと土気色になり、やがて眼窩が落ちくぼみ、目口の端から汁が出て…。男の父親が来たのは狂乱の夜から五日程後のことでした。


――いかにも豪傑と言った感じの武士でした。屋敷の人々は言葉少なに彼を座敷へと案内しました。父親は開け放たれた襖の向こうの状況に眉ひとつ動かさず、ずかずかと上がり込むと自らの息子を一瞥し、吐き捨てました。「女郎如きに殺されおって」とね。そして眉をひそめて女を見ると、懐から取り出した扇子でぴし、ぴし、と女の頬を打ちました。

――女、何故お前は生きておる。息子に申し訳ないとは思わんのか。死ね。早う死ね。…女はこの言葉が聞こえていたのか、もたもたと手を合わせると拝むような仕草をしました。父親はその様を汚物のように見下すと、扇子を彼女の腹の上に投げ捨て部屋を後にしました。そして我々に言いました。大変なご迷惑をおかけして申し訳が無い。この上に無理なお願いをするのは心苦しいのだが、と。

――このような仕儀に相成った以上、息子を連れ帰ることはできない。ご当家に和尚が逗留されていたのも何かの縁、些少ですがお受け取り頂き、どこへなりとも葬って頂くことはできないか。父親がかねてから用意してあったような袱紗を取り出すと、家の主は思わず後ずさりましたね。その重みと厚みは、恐らく彼が一生手にするはずのなかったものでしたから。


――そうして二人の無縁仏の葬儀は始まりました。家から運び出された時は、ぼんやりと呆けていた女も、私の読経が聞こえた途端にぱちりと目を覚ましましてね。しかしもう人々は容赦しませんでした。彼らは腐れた男を横たえた深い土の穴の底に、女を投げ入れました。もう喋ることもできないのでしょう、獣のような女の唸り声が穴の底から響きます。

――村人たちは数珠を手にしながら、どんどん土を掛けていきました。女の叫びはより大きく悲痛になりました。それを覆い隠すように私も声を張り上げ経を読み、土はどんどん埋め戻され…鼻や口に土が入ったのでしょうね、女はなんどもむせながら、それでも最後まで叫んでいましたよ。言葉にならずとも「たすけて」とね。誰にも聞こえてはいないようでしたが。

――彼らはすっかり土を埋め戻し、何度も足で踏みならすと、結構な額を私にご寄進くださいました。口封じ、という奴ですね。ああ、本当に面白い場面に遭遇することができましたよ。人というのは実に恐ろしい。













幽霊の話


――最初に言っておくが、俺は亡霊なんざ信じてねえ。だからこれは、単なる俺の思い出話だ。そこんところ勘違いすんじゃねえぞ?


――あれは家督を継いで数年後か。色々あって、弟を殺した。俺がこの頭で考えて決め、俺がこの手で斬り捨てた。可愛い弟だった。よく俺を慕ってくれた。しかし、殺さなけりゃ立ち往かなかった。…いや、殺した方が都合が良かった、ってのが正直なところだな。俺はてめえの行いを取りつくろったりしたくない。

――弟の葬儀も盛大に終わり、さてこれで内輪は静かになるなと思ったところだった。俺は視界の隅に妙な引っ掛かりを覚えるようになった。アンタも見ての通り、俺は右目の視力がねえ。だから常人よりも視界が狭いのは当然だ。ガキの時分に病んだから、今じゃあ違和感もねえけどな。だがそのおかしなもんは俺の視界の右端…普段なら見えない場所で、見えていた。

――ある時、座敷の隅の暗がりに蟠ったそれにはっとして、俺はその何かを正面から見た。するとそこには何も居ない。何だ気のせいか、そう思って立ち去りかけたところで畳に何かが落ちていることに気付いた。…独楽だ。俺がガキの頃遊んでて、弟にやった独楽だった。俺はゆっくりそれに近付き、拾い上げ、庭に投げ捨てた。

――一瞬ぞくっとした自分への八つ当たりのようなものだった。弟の遺品の整理などを女たちがしているから、そのときに零れおちたりしたのだろう。まったく人騒がせな。俺は踵を返して今度こそ座敷を出ようとした。その時。独楽のあった場所が視界から消えようとした瞬間。見えない目の端に映ったのは、独楽を追い掛けるようにして庭へ駆けだす子どもの後ろ姿だった。


――以来、子どもの後ろ姿は時と場所を選ばず現れるようになった。食事中も閣議中も閨の中でも構わずに、それは現れる。こちらに何かしてくることは無かったが、返って相手の意図の分からないことが不気味だった。右目の視界で見える子どもは、何かして遊んでいることもあったが、殆どの場合は泣いていた。俯く顔の造形が徐々に分かって来て、俺は二つの意味で戦慄した。

――ひとつには、それがやはり弟にそっくりだったこと。もうひとつは、つまり子どもは段々こちらに向き直ろうとしているのだ、ということ。俺は子どもがこちらへ完全に体を向ける日のことを考えて瞑目した。弟の体の前面には、俺が袈裟切りにした傷口がぱっくりと口を開けているはずだ。弟はその傷を見せつけようとしているのか、と俺は思った。

――加速度的に現れる頻度も増えて行った。一瞬たりとも気の休まらない俺は、どうやら傍目にもやべえ感じが伝わっていたらしい。皆に心配されたが、口が裂けても本当のことは言えなかった。子どもはじわりじわりとこちらを向く。初めは真後ろの姿だったというのに、いつの間にやら耳が見え顎の線が分かり頬、目じり、眉、鼻筋…今では真横を向いた子どもは、いつもしくしくと泣いていた。


――後悔などしないはずだった。てめえで考えてめえで為したことだ、誰のせいにする気もない。しかし弟はさぞ無念であったろう。まだ幼いのに兄に斬り殺されて往生できるはずものない。ある日眠りに入る徒然にそんなことを考えていたら、ふいに部屋の空気が緊迫するのが分かった。あいつが来る。俺は咄嗟に目を閉じようとしたが、元より見えぬ目で見ている幻なのだ。意味が無いことなど少し考えれば分かることだった。

――視界の端に現れたそれへ俺は、小次郎、と呼びかけた。小次郎、一体何が望みだ、と。子どもは大きく頭を振った。その瞬間、俺には何かが見えた気がした。望みは無いなら、一体何が目的だ。いい加減、はっきりその面見せやがれ!俺の声を聞くと、子どもは立ち上がるでもいざるでもなく、そのままの姿勢ですうっと枕元まで来た。まるで氷の上を滑るようだった。

――子どもはからくり仕掛けの人形のように、ぎ、ぎ、ぎ、とこちらへ向き直った。秀でた鼻筋が、唇が露わになり…俺はそこで絶句した。子どもには右の目が無かった!瞼は爛れて崩れ癒着し目の無い眼窩は落ちくぼんでそこだけ亡者のようだった。ようやく、俺は理解した。そして呼びかけた。梵天丸。お前、俺が憎いのか、と。


――小さな手が俺の首に伸びてきた。じっとりと濡れて冷えた掌が、ぐうっと喉仏を締め付ける。子どもは未だ泣いていた。目の無い眼窩からも涙を零しながら俺の首を絞める子どもは、いっそ憐れでさえあった。声は出せなかったから、俺は頭ん中で一度だけ謝った。そんで一気に起き上がり、枕元の脇差を取って子どもに斬り付けた。

――子どもは…いや、ガキの頃の俺は呆気に取られたような顔をした。その間にも二太刀、三太刀。幻の体から血は出ないが、剣線が光の筋のようになって残った。仕舞いに蹴り飛ばしてやったら、部屋の隅まですっ飛んで行って、畳に染み込むようにして消えた。その様を見届けると、俺は布団をひっ被って寝た。久方ぶりの熟睡だった。


――その後、俺は親父を殺して母親を捨てたが二度と梵天丸に会うことはなかった。俺が斬り殺してやったからか、出ても仕様が無いと観念したのか…俺の中から消えちまったのかは、分からない。まあ俺としちゃあ二度と見たくねえ面だから、今となっちゃ好都合だったかもな。













暗闇の話


――あなたを後ろから見ているものがあるわ。

――そう言って、例えばあなたが後ろを振り向いたとして。そうしたらあなたには前が見えなくなってしまうわね。いつもそうよ。人はこの世のすべてを一度に見ることなどできない。必ずどこかに死角があって、光の届かぬ場所があって、そこからあなたを伺うものがある。それを人は神と言ったり鬼と言ったりするのだわ。

――闇を恐れるのは獣の性ね。何があるか分からないのだもの、警戒しなければ生きては行けないでしょう。けれど人は獣の中でも少し利口な方だから、自ら光を作り出せる。その光で闇を照らして私たちは生きてきた。そのせいで、より深い闇を生み出してしまったのかもしれないけれど。暗闇と共存する方法を忘れてしまったのね。


――目に見える闇が闇の全てではないわ。闇の本質は「見えないこと」。あなただって毎晩眠るでしょう?その間あなたが見ているものだって正真正銘の闇だわ。だから闇から逃れるために目を瞑るなんて滑稽だわ。目に見える仄かな暗がりから、底なしの虚無へと落ちて行くようなものよ。ねえあなた、昨日の自分と今日の自分が全く同じ人間だと断言できるかしら。

――目を閉じて、意識を失って。誰にも見られていないあなたを昨日のあなたの続きだと誰が断言してくれるの?例えばあなたは今日の朝、目覚めた瞬間に生まれたのではないかしら。花瓶に水を注ぐように、昨日までの記憶をそっくりそのまま焼きつけられて。もしそうだった場合、昨日のあなたと今日のあなたを同一にする手立てはなあに?

――あなたの目は皆と同じものを見ているのかしら。あなたの耳は皆と同じものを聞いているのかしら。確かめる方法なんてないでしょう。目に見えないものを闇とするなら、自分以外の存在は全て闇だわ。隣に座っている人が次の瞬間刃を突き刺してくるかもしれない。いいえ、突然世界の底が抜けて、底なしの空に落ちて行くかもしれない。未来だって闇には違いないもの。

――所詮人が知りつくすことが出来るのはちっぽけな己の自我ばかり。たとえ自分のことであっても、心の中には鬼や蛇が住んでいたりするものよ。さて、困ったわね。あなたに残された光はなあに?あなたがこれは絶対に揺るがないと、不変の真理だと言い張ることのできるものはあるかしら?


――見えないこと、分からないことに対して人はとても脆弱だわ。分からないことを分からないままにしておけない。だから必死で理屈を付けるの。薄闇の中にあったものを、白と黒とに切り分ける。でも薄闇を薄闇と感じた人々の感性、そこまでは理屈で操作できない。ここで生まれた現実と感覚のずれが、所謂怪談なんでしょう。

――でもね、人は暗闇から生まれるものよ。そして暗闇へ還るもの。いたずらに恐れるものじゃないわ。生きている間は光の下を歩くかもしれないけれど、魂は常に闇の香りを覚えているの。だからみんな、執拗に暗がりを見ようとするんでしょう。未知への恐れと少しの郷愁を抱きながら。

――暗闇に身を委ねましょう。分からぬことは分からぬままに、分け得ぬものは分け得ぬままに。黒も白をも呑み込む闇は、私たちが知っているほんの些細な真理だって、まだ見ぬ大きな神秘と同じく溶け合わせてくれるわ。そうして闇に慣れた目であなたの世界を見渡したとき…今までとは違うものが、きっと見えているはずだから。

――ようく覚えておいてね。この世で一番深い闇は、あなたの瞼の裏にあるのよ。