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化生の話/刑部、潮騒の話/元親、白面の話/元就、偶像の話/孫市 化生の話――やれ来たか。そのようなところに突っ立っていても始まるまい。近う寄りやれ、寄れるものならな。ひひ、ひ。そうむきになるな。我は見ての通りの忌まわしき病者、他人からどのような目で見られるかくらいとうに心得ている。我のことを化け物と思うか?…そうよな、おべっかとして受け取っておく。ひひっ。 ――そうよなあ、ぬし程の年周りであったか。いや、もう少し薹が立っておったな。この病を得たとき、我は豊臣の家臣として文に武に尽力していた。太閤からの覚えもめでたく、同年輩の者らより頭一つ飛びぬけて出世してな。周囲には我にへつらう者とやっかむ者が日ごと夜ごとに山盛りよ。それすらも、我は楽しんでいたが。 ――唐突に、病者となった。初めは寝れば治ると思い、医者に掛かっては何かの間違いと思うた。そのようなことをしているうちに月日はずるずると過ぎ、やがて明らかな兆候が出た。我は観念して太閤に申し上げた。勿体なくも重用して頂きました大谷刑部、人目を憚る病を飼う身と相成りました、とな。 ――太閤の裁きより、周囲の反応の方が早く面白かった。どこから漏れたのかは知らぬが、我の病の噂は早馬のように城内を飛び回り、雲霞のごとく我にまとわりついていた者たちは、その日から目すら合わせんようになった。これで終わった、と我は思った。準備していた隠居所に引き篭もり、余生を過ごすのだ。忌まわしき病者として。 ――我を訪れる者など居はしなかった。日がな一日床に伏して、我は我の人生を振り返っておった。犬に噛まれたようなもの、ただの酷い偶然よと分かっては居たが…しかし、理不尽の思いを消すことはできなんだ。細々と入って来る外からの情報もまた、我の心を乱した。 ――我を何かと嫌がらせた男が、我の居た椅子に座っていた。我が目を掛けて育てた部下が、その男にへつらっていた。我を取り巻き甘言を垂れ流していた雲霞どもは、てんでに新たな蜜を探して飛び去った。我への罵詈雑言を手土産としてな。…我がしてきたことは何だったのか。気付けば天井の染みを見上げながら、我は呪詛を吐き続けていた。 ――やがて飯炊きの婆が面白い噂を拾ってきた。大阪城に化け物が出るらしい。襲われたのはくだんの雲霞どもだ。夜宴から帰る道すがら、何やら黒い靄のようなものに纏わりつかれ、数人は気が触れたとか。面白い、と我は笑った。おおかた酔って何かを見間違えたのだろうが、独り相撲で気狂いになるとは! ――しかし何やらおかしなことになってきた。城内ではその靄の化け物が、我の生き霊であるともっぱらの噂らしい。我は歯噛みした。そのような無様で短絡的な仕返しをするくらいなら我は喜んで死を選ぶ。我は懊悩した。しかしその化け物と我に関わりが無いことなど、証明の仕様もまた無いのだ。 ――その間にも化け物に襲われる者は増えて行った。誂えたように我と関わりのあった者ばかりだ。みな黒い靄にのみこまれて精神を病む。隠居所の近くまで肝試しのように訪れる輩まで現れ出して、我は腹を決めた。この目で靄を見に行こうとな。暴挙と思うか。我もそう思う。しかし黙っておることもできなんだ。 ――我は病を得た。しかしそのことで、我が豊臣に仕えて為したことまでを否定されとうはなかった。この化け物の正体が我だということになれば、我は我の仕事の最後に汚泥を塗りたくることになる。それだけは許せなかったのだ。ひひ、我も若い。靄が出るのは夜半すぎ、それまで精々寝ておこうと我は布団に入った。 ――朧月の夜だった。我は久方ぶりに大阪の城を訪れた。化け物を恐れてか、出歩く者はおらなんだ。これは好都合と、我は自由に城内を歩き回った。ふと見れば、見知った顔がある。…あの男だ。我の後釜に座り我の仕事を中途から滅茶苦茶にしてくれた男。我の信頼と部下の全てを手中に収めて穢した男だ。 ――男は我の方を見て、驚きと恐怖に顔を引き攣らせた。我は庭園の飛び石を殊更ゆっくりと踏んで近づき、頭巾の下で笑ってみせた。御機嫌よう。そう言ってやったら男は腰を抜かしてな。無様に尻で這い後ずさりしながら叫びよった。来るな、化け物め、と。雲間から月が現れ、池の水面に我の姿を映した。 ――化け物は我であった。首や四肢の区別もなく、ただどろどろと沸き立った黒い靄が水面に映っていた。思わず立ち止った…否、動きを止めた我の前から、男はわあわあと叫びつつ逃げて行きおった。その様子を眺めながら、ようやく己が何をしていたか我自身にも掴めて来たのだ。 ――昼の間、我は自らを化け物扱いする者どもを強く憎んだ。我は病を得ただけの人だ、自らの名を汚すような真似を自ら為すはずが無い、と信じた。しかし夜の間…体と共に理性が眠った我の中には、けだもののように単純な、憎しみの心しか残らなんだのだ。我の憎しみはとぐろを巻いて庵を抜け出し、懐かしの大阪城へ…やれ愚かしい、浅ましいことよ。 ――我は二度と眠らぬ覚悟を決めた。それで命が縮むならそれまでと腹を決めてな。もはやこれは我の、人としての意地だ。…まあ実際にはそのようなことにはならずとも済んだ。次の日竹中殿がおいでになって、我に仕事を下すったのだ。それ以来我は仕事にかかりきり、不毛な呪詛などしている間も無い毎日よ。 ――おお、御苦労であったな。…遅ればせながらの茶と菓子だ。これは茶を淹れるのが上手いゆえ味わって飲むが良い。佐吉、もう良いぞ。下がって素読の続きをしておれ。客人が帰ったら我が見てやろう。…ひひ、なに早う帰れなどとは一言も言っておらぬではないか。そのように気を回さずともよい、よい。ひひひ。 潮騒の話――俺の船に乗ってた若い男が居てな。じゃあまあ、権助とでもしとくか。そいつぁ筋はいいんだがいかんせん金と女にだらしない。俺も何度か注意はしたが、へらへら笑うばかりでな。まあ憎めない奴ではあったから、仲間たちもしょうがねえなあって言いながら上手くやってたんだ。しかしある日を境に、権助の様子がおかしくなった。 ――始終落ち着きなく窓や扉のあたりを気にする。物音にやけに敏感になった。誰にでも、権助が何かに追われてるんだって察しは付いたはずだ。おおかた博打で負けて銭を踏み倒したか、やくざ者の女に手を出したかそんなとこだろうと俺は当たりを付けていた。 ――俺が呼びだしたら、もうその時点でそいつは観念したみてえだった。ここじゃなんだから、って言われて、おういいぜ、久しぶりに岡場所なんて洒落込むか、なんて言ってやったら、そいつ何て言ったと思う。いえ、ここじゃなんなんで、海に出ましょう。ああ?って見返したがそいつは本気だった。俺とアニキしか乗んねえんだから、小舟で十分でしょうってな。 ――普段は大船に乗りこむために使う小舟で、俺たちは夜の海に出た。そいつが櫂をこぐぎいっぎいって音だけが波音に紛れて響いてなあ。星がちらちら光る夜だった。普段なら感じないような、生々しい海の臭気が鼻に付く。尻の下は木の板一枚挟んで海だ。圧倒的な水の量と、自分のちっぽけな体。岬の火が遠くに見えた。 ――アニキ、俺ね、拾ったんすよ。波音にも消えそうな声で権助はぼそぼそと言った。波打ち際でさ、なんかきらきら光るものが落ちてて。不思議に思って見に行ったら、女の簪だったんだ。土台はたぶん純銀で、細かく龍が彫ってあった。つるつるに磨き上げられた紅色の珊瑚が乗って、目ん玉みてえにおっきな真珠が何個もぶら下がっててさ。 ――簪の説明をする権助の目は、恍惚としてなんだか気色が悪かったな。俺はそうかそうかと聞きながら、一体こいつはどこまで漕ぐ気だろうってそっちばかり気にしてた。やがて権助は俺の様子に気付いたのか、アニキ、聞いてるんですかい、なんて言って。聞いてる聞いてる、そんで、そのお綺麗な簪がどうしたんだい。先を促すと権助はまた喋り始めた。 ――これは間違いなく値打ちもんだ、って思ってね、俺はそれを…懐に入れやした。馬鹿野郎!間髪入れずに俺は言った。権助はひたすらすいませんって謝るばかりだった。権助は言った。簪はすげえ金になった。そんで俺はその金で…。博打を打って、負けたのか。はい、その通りですアニキ。権助はしおらしく答えた。俺は盛大に舌打ちして海を見た。真っ暗な海はどろどろと流れ、時折トビウオの背びれがきらりと光る。 ――その夜でした…。何かが戸板にぶつかる音がして、俺は外を見た。灯りがなくて誰が来たのかは分かんなかったけど…アニキ、信じてくれるかい。星灯りで浮かび上がった輪郭は、まるで海藻を山積みにしたみたいだった。小山はごぼごぼした声で言った。もうし、もうし。ひいさまのおかざりを、うけとりにまいりました。 ――あの簪だ!って俺には分かった。分かったけど、もうどうもできねえ。あの簪は売っぱらっちまったし、金もすっちまった。俺は両手で口を塞いで、がたがた震えてた。もうし、もうし。おかえしくださいませ。べしゃ、べしゃ、と何かがぶつかる音がする。水を含んだ海藻が戸板を叩いているんだと俺は思った。 ――権助の話を聞きながら、やべえことになったぞと俺は内心焦っていた。いくらも沖に出ていないのに、舟はまるで南洋みてえな海藻の海を進んでいる。星灯りでも分かるぐらいはっきりとした…要するに、海面近くってこった…夥しい魚影が、舟を取り囲むようにして浮き沈みしていた。どこかから海豚の鳴き声まで聞こえてくる。異界だ。俺は思った。俺たち二人は丸腰で、海中異界へと迷い込んでしまったんだと。 ――朝まで粘って、ようやく扉を開けたんです。そしたら軒先には案の定、ものすげえ量の海藻が落ちてやがった。日に照らされて腐り始めたみたいで、臭いは酷いもんだった。でもアニキ、それで終わりじゃなかったんだ。俺は、追いかけられ始めた。海に。水を飲んでも潮の味がする。耳を塞いでも波の音が聞こえる。アニキ、どうしよう。俺、俺… ――はあ、と溜息をついて俺は再び海を見た。ごんすけ、ごんすけ、ごんすけ、ごんすけ。潮騒に無数の男の声が混じる。お前にも聞こえてんだろ?権助に問いかけたら、あいつは嫌々をするように首を振った。そんじゃ、これはどうなんだ。お前まさか、さっきから櫂にまとわりついてるもんを海藻だなんて思っちゃいねえだろう?。 ――権助。優しく呼んでやったら、そいつはぼたぼた涙を落としながら、へい、アニキ、ご迷惑おかけしました、と言った。最後に自分でここまで来ただけ、お前は腐っちゃいなかった。そう言ったら権助は、有難うございました、と言って俺に櫂を差し出した。女の黒髪をぞろりとまとわりつかせたそれを、俺は無言で受け取った。権助は、そのまま後ろ向きに海へ落ちた。 ――権助が水に浸かる瞬間、俺には青い顔をした髪の長い娘が、水面から両手を広げるのが見えた気がした。権助は髪の海に受け止められ、一度も浮かぶことなく沈んで行った。あいつを抱えて行ったのだろう、海を埋め尽くしていた髪はすうっと消えて行った。無数の魚たちも深海に去り、後に残されたのは俺と小舟だけだった。 ――俺を酷いと思うかい?俺だって気分は良かあ無い。あいつを助けられなかったとも思っている。だが、これが海の流儀だというなら、俺たちは従わなきゃなんねえ。俺は権助がてめえで飛び込めないようなら、間違いなく背を押しただろう。海では俺たちが客なんだ。俺たちは海の中じゃ生きてることすらできねえんだから。浜辺の物を拾うなってえのはそのことさ。 ――海の生き物は浜で死ぬ。浜の生き物は海で死ぬ。波打ち際ってえのは、海と陸の死が交わる場所だ。そこに落ちてるものなんて碌なもんじゃねえ。人が落とした物ならいいが、海から来たものは海の原理の中のもんだ。人がどうこうしたら、間違いなく酷えしっぺ返しが来るって寸法よ。この権助みてえにな。板の下には地獄がある。海賊にゃ、その程度の考え方がちょうどいい。 白面の話――我に話を所望するか。物好きも居たものよ。…では、我の話を聞き終わった後、我の問いに必ず答えると約束せよ。なに、難しい問いではない。見たままを言えばそれで良い。…ふん、ならばよかろう。 ――過日、我は蔵に入っておった。昔読んだきり仕舞い込んだままの書を探そうと思うてな。普段ならば捨て駒どもにさせるのだが、いちいち装丁や形状を説明するのが面倒であったし、なによりその日の我は少し手空きであったのだ。埃臭い蔵に入り、目当てのものを探し出す。よし、帰ろうと思ったところで見慣れぬ箱が目に入った。 ――荷物を置いて近付いてみると、上等な桐箱だ。蓋から本体にかけて、面と書かれた短冊状の紙が貼ってあり、それを破らねば蓋は外せぬようだった。興味をそそられた我は、書とその箱を持って部屋へと引き上げた。箱は大きさからは考えられぬほどに軽く、きちんと中身が入っているのか我は少し心配になった。 ――部屋で早速空けようとしたが、我は一瞬踏みとどまった。この紙はまさしく封印であろう。わざわざ施してある封を開くことで、何か障りがありはしないか、と。しかし好奇心には勝てなんだ。我は紙を破いて蓋を開けた。中に入っておったのは、木肌が剥き出しのままの素彫りの面だった。我は導かれるようにその面を顔に当てていた。面はまるで肌に吸いつくようにぴたりと嵌った。 ――悪寒がして我は慌てて面を外した。外したはずだった。しかし我が手に面は無い。床に落としたわけでもない。面はまるで煙のように消えてしまったのだ。…消えた?本当に?我は慌てて鏡を見た。そこには、我の知らない我が居た。頬に触れるとそれは確かに皮膚の感触だ。しかし…これは我の顔ではない。 ――眉根を寄せて見開かれた瞳。もとより血の気の無い顔はいっそ青白く、わななく唇にも色が無い。それは恐れの表情だった。このような表情、我が浮かべるわけがない。我は悟った。理屈は分からぬが、あの面は我の顔に張り付いてしまったのだ、と。ならば剥ぎ取る他あるまい。我は顎の間接に爪を立て、そのままばりばりと顔の皮を剥いだ。 ――別に痛くも痒くもなかった。なるほどやはりあれは面であったか、悪趣味な造形であったことよ。そう思いながら再び鏡を見たとたん、我の背中を怖気が走った。鏡の中の我は満面の笑みを湛えていたのだ。撓められた瞳も紅潮した頬も我には馴染みの無いものだった。笑う我は年端の行かぬ子どものように見えた。これではいけない。我は再び顔の皮に手をかけた。 ――引き攣れる痛みが走ったが、我慢できない程ではない。否、我慢のできぬものなどこの世に幾らも無いだろう。我は慎重に皮を剥がすと荒い息の下鏡を覗いた。そして三度絶句した。そこにあったのは、涙を流す我の顔であった。痛みで泣いたわけではない。断じてそのようなことはない。しかし鏡の中の我の瞳はほろほろと涙を零している。 ――下がった眉尻はどことはなしに稚く、目の下を赤く貼らした様もまるで幼子のようだった。しかししゃくりあげることもなく、声を漏らすこともなく、我は静かに泣いていた。震える指で目の下を拭うと、やはり透明な水に触れた。ほろほろ、ほろほろと流れる涙は尽きることなく顎までを濡らす。我は唇を噛み締めた。 ――これも我の顔ではない。我がこのような顔をするはずがない。そのような我を我は許さぬし、またそれが分からぬ我でもない。ならばやはりこれは面なのだろう。本当の我の顔は、面の下に必ずあるはずだ。我はぎりぎりと顔に爪を突き立て、力任せに皮を剥いだ。ぶちぶちと髪の切れる音や皮が裂ける音がした。三度めの行為は酷く痛んだ。痛んだが、我にそれを止めるという選択はできない。 ――獣のように唸りながら、我は己の顔の皮を剥いだ。剥ぎ残した部分を指先でこそぎ落せば、爪と指の間に赤黒い皮と血が残った。我は気が遠くなりそうなのを押し留めて鏡を見た。鏡の中にはまた別の顔をした我が居る。はにかむように微笑む。寂しげに目を逸らす。涙が出るほど笑う。違う違う違う違う!どれも我の顔ではない! ――我は何度でも爪を立て、苦悶しながら皮を剥ぎ、そして鏡を覗いて絶望した。そのうちに爪先は鉄錆色がこびりつき、着衣の前も血と体液で赤黒く染まった。皮の剥がれるばりばりという音が耳から離れなくなるほどに、我は自らの面を破り続けた。そして時間の感覚が無くなった頃…鏡を覗いて驚いた。見知らぬ顔があったのではない。 ――そこには、何も無かった。 ――我は鏡を見たまま自らの頬を撫でてみた。頬を撫でる掌はある。しかし表情は無い。表情というより、顔が無い。首から上、耳と髪に囲まれた一帯が、まるで切り抜かれた絵のようにぽっかりと空いている。何度も何度も確かめて、我はへなへなと座り込んだ。もう我には、自分がどのような顔を探しておったのか、あるべき己の顔はどのようであったのか、それすらも思い出せなんだ。 ――さあ、我の話はこれで仕舞いぞ。捨て駒共は顔を喪った我を見ても何も言わぬ。恐らく顔が無いと見えておるのは当の我のみなのだ。貴様にも我の顔は見えているのだろう。言え。我はどのような表情をしている。我の顔は、我はどのような顔だったのか、言え。もはや我には分からぬのだ。 偶像の話――我らは神を信じない。故に地獄も信じない。故に怨霊の類いも信じはせぬし、同じく物の怪あやかしも居るわけがない。我らは人を殺す。殺すことを美化も正当化もしない。また、いつか人に殺されることを恥じも恐れもしていない。そういう生き物なのだ、我らは。 ――酷い戦があった。互いの兵士と食糧弾薬をすり潰し合うような、未来の見えぬ持久戦だ。業を煮やした一方の勢力が、我らを突破口として呼び寄せた。我らは迅速に死地へ赴き、いかに戦を早期に終了させるかを吟味した。 ――敵方の陣を見下ろすような場所に、小高い岡があった。夜陰に乗じてあの岡を占拠し、前と後ろから一気に攻めれば本陣を潰すことができる、あとは単なる戦場の掃除だと我らは主張した。しかし何故か軍師どもは首を縦に振らない。焦れる我らに一人が言った。あの岡は聖域だ、と。 ――あからさまに表情を変えた我らに、気分を害したように彼らは言った。あの岡にある社の持つ悠久の歴史と縁起譚。社の功徳と天罰の事例。年に一度の大祭では数多の獣の命が捧げられ、過去にはその怒りを鎮めるため人柱すら立てたという荒ぶる神だ。話を聞くだけで、その神が人々からどのように敬われ畏れられているかは、容易に伺い知れた。 ――だが、それまでの話だ。我らの世界に神は居ない。故に彼らの信仰心を理解はしても共感はできない。我らはこの作戦の優れている点、いかに合理的な立案であるか、この作戦を取り入れることによって戦が何日早く集結するか、それにより何人の兵士と兵糧と銭の無駄遣いが防げるか。我らの案が受け入れられるまでには三日を要した。 ――彼らは言った。我らへの報酬を倍にする。その代わり、岡への布陣も岡からの攻撃も全て我らが担うこと。要するに、自らの手は染めたくないということだな。我らは了承した。それしきのことで報酬が倍になるのだから、お安い御用だった。 ――打ち合わせ通り我らは岡を占拠した。敵軍もまさかこの岡を拠点にするとは思っていなかったらしい、がらあきの背後に向かっての一斉射撃は、的を相手にする訓練よりももっと容易く虚しいことだった。我らは予定の半分の時間で敵本陣の制圧と残党の掃討を終了させた。しかし我らの心には如何ともしがたい何かしこりのような物が残った。 ――その時、部下の一人が火薬の処理を誤って爆発させた。炎は社を半ばほど舐めてから、ようやく消えた。社の保全の義務などは契約の範疇に無い。我らはしめた、と思った。そして、現状の正確な把握のためとして、社の中に足を踏み入れた。焦げくさい木片はまだ熱を持っていて、我らには理解しがたい祭祀の器具などが溶けて転がっている。 ――邪魔な瓦礫を蹴り飛ばして辿りついた社の最奥にあったものは、仰々しい飾りの付いた大きな祭壇と、そこにたったひとつ置かれた古びた匣。我らは思わず息を飲んだ。その場には何か独特な空気が濃密に流れているように感じた。…と、我らは気付いた。何を気圧されることがある。我らの世界に神は居ないのだ。 ――我らは無遠慮に近付くと、ためらいなく匣に触れた。じっとりと水気を含んでいる。何とも言えない臭気と存在感がほんの一尺四方の匣から発散されている。気圧されるな!我らは自らを叱咤した。そして下腹に力を込めると、ひと思いに括り紐を千切り匣を開けた。…そこにあったのは、我らの想像を絶するものだった。 ――そこにあったものは、なかった。その匣に中身など最初から無かったのだ。我らは事態を正しく呑み込むと、誰からともなく笑い声を上げた。そして皆で笑いながら、祭壇へ火を放った。そして燃え盛る拝殿を捨て置いて岡を下り、雇用主どものところへ戦勝の成果と瑣末な報告をしに向かった。 ――そこで初めて我らは、我らに作戦の許可を出した責任者が腹を切って死んでいたことを知った。遠目に燃え盛る社を見て、何人もがそれの後を追ったことを知った。我らに応対したものは、我らを一言も責めなかった。約束の報酬を渋らずに払うと、丁寧な言葉で我らの労を労った。こいつも死ぬ気だ、と我らは悟った。 ――今でも時折思い出すのだ。あの社のたたずまいと、空っぽの本尊のことを。そして思うのだ。空っぽの匣に向かって祈りを唱える無数の人々を。流された数多の生贄の獣の血と人柱の涙を。その社があるがために浪費された兵士の命を。目に見えぬ者への義理だてのため、無碍に散った命もこれが初めてでは無いはずだ。 ――全てを飲みこんでなお虚ろな、空っぽの匣の暗がりを思い出すたび、我らは妙な気持ちになる。きっとこれが、恐ろしいということだろう。 |