第 二 夜


悪魔の話/三成、死相の話/鶴姫、手引の話/家康、古書の話/松永

悪魔の話


――近頃、よく夢を見る。もともと眠りは浅い性質であったが、こんなにも夢を、しかも同じ夢ばかりを見るというのは稀だ。不愉快な内容だから余計に気になるのだろう。私がほんの一瞬眠りに気を遣った隙を突いて見せてくるのだから、もしやこれは何者かが意図して見せているのではないかと疑いたくもなってくる。そのようなこと、私は信じないがな。


――夢の内容は、こうだ。私は一人、芒と芦の原を歩いている。暑くも寒くも無い場所で、季節の花もてんででたらめに咲いている。ここはどこだろう、と私は首を巡らす。何度同じ夢を見ても、毎度変わらずこの動作をするのだから馬鹿らしい。まあ、それはどうでも良い。とにかく手掛かりを求める私の目の前に、待っていましたとばかりに銀色の一面が現れるのだ。

――生まれ育った琵琶の湖だ。見間違えるはずもない。私は少し安堵する。城に帰らねば、と思う。そうして踵を返した私に、決まって湖の中から呼ぶ声がするのだ。みつなり、と。私は急ぎ耳を塞ぐ。その優しげに甘やかな声は、彼の岸へ旅立たれて久しいあの方にそっくり似ているのだ。この声を長く聞いてはいけない。私は耳を塞いだままその場を立ち去ろうとする。

――みつなり、まって。あの方の声が…否、あの方の声音を真似た、何者かの声が追い縋る。私は更に強く耳を塞ぎ、走り出す。しかし足に力が入らない。必死で駆けているのに景色は全く変わらず、土を蹴っている感覚も伝わって来ないのだ。堪らない焦りが私を支配する。そんな私に声は言う。みつなり、もういいよ。もういいんだよ。その声は本当にあの方に似ていて、あの方そのもので、私の心は酷く掻き乱される。


――遂に私は倒れる。しかし柔らかな下草に受け止められて体はどこも痛まない。一面の芒と芦の隙間から、懐かしい湖が見える。私の生まれ育った湖。あの方をもまた育てた湖。湖面には次々と風紋が立ち、落ち着きなくざわめいていた。まるで今の私の心のようだ。みつなり、わすれていいんだよ。ここで声が核心を突く。私は思わず立ち上がる。

――貴様、言うに事欠いて私を誑かすか!私は湖へ声の限りに叫ぶ。おおかた卑しい獣か物の怪だろうが、そのような手合いに騙される私ではない!どこへなりとも疾く失せよ!耳障りにも程がある!心の鬱積をぶつけるようにして叫ぶたび、湖には激しい波紋が立つ。それはまるで私の言葉に反応して千々に乱れているようで、私の衝動は収まらない。

――みつなり、もうわすれて。もういいから、もうぼくらはじゅうぶんだから。声はまるですすり泣いているようだ。あの方をお泣かせしているような気分にさせられて、更に私の頭に血が昇る。私は辺りの草を引き千切り、枯れ枝や何やらを掴み上げると、酷く嗜虐的な気持ちでそれらを湖に投げ入れる。湖に物が落ちているとは思えない、びしりびしりと乾いて張った音がする。まるで人を枝で打っているようだ。

――物の怪の分際であの方を騙るとは無礼千万!死んで詫びても尚足りぬ!今すぐにその姿を見せよ!そっ首叩き落としてくれるわ!猛った私は声の限りに咆えながら湖に石を投げる。ごん、ごつ、と生々しい音をさせて、水面がじわりと赤く染まる。私は夢中でがなり立てる。私の邪魔をする者は許さない!私を止められるものがあるとすれば、今は亡き方々のみだ!


――気付けば水面は深紅に染まり、生臭いにおいが周囲に立ち込めている。あの方が末期の病床で吐き出した大量の血を思い出し、私は思わず立ちすくむ。みつなり。ひび割れ皺枯れた病人の声がした。物の怪め、まだ言うか。私を呼び捨てて良いのも泉下へ行かれたお二方だけだ。低い声で言ってやれば、ようやく声は黙ったようだった。

――貴様、私を籠絡するのが目的か。さてはあの男に加担しているな。私の怒りを削ぎ、過去の幸福で有耶無耶にしてしまおうという算段だろう。そうは行かない。私から絆を奪ったあの男を私は許さない。死ぬまで、死んでも、許さない。この魂のある限り、私は奴を呪い続ける!私の独白は湖畔の景色に広がり消えた。いつの間にやら辺りはすっかり荒れ果てて、芦原は枯れ芒は倒れ、花々はみな萎れていた。

――冬の風が吹いている。じきに雪が降るだろう。あの方の果てなき夢の上に、私の幸せな時代の上に、音も無く白が降り積もる。ふと右肩に僅かな重みを感じた。今にも掠れて消えそうな声が、私の耳元で囁いた。ごめんね。どうか、しあわせに。驚いて振り向いた私に見えるのは、荒涼たる湖畔の冬、それだけだ。


――いつも、ここで目が覚める。そして泣いている自分に気付く。いくら紛い物とは言え、亡き方のお声は私の精神に強く影響を与えるのだろう。釈迦の修行を完成させまいと誘惑した悪魔が居るという。ならばあの声は私の悪魔に違いない。悪魔への怒りは回を重ねるごとに増し、今では夢に引き込まれたらすぐ湖を蹂躙するようになった。思いなしか声も徐々にかすれて消えかけてきたようだ。そろそろあれに煩わされることもないのではないかと、私は期待している。













死相の話


――先のことが分かると言うと、大抵の方から羨ましがられますが、良いことばかりではありません。未来はその時々で変わって行きますし、未来に振りまわされては今を生きられない。そういうお話です。


――私の社に、先を視てほしいと訪れた母子連れがありました。お母様はまだ若く、まるでお人形さんのように美しい方。息子さんはまだ五つか六つか、お行儀よくちょこんと座って私が入ってくるのを待っていました。可愛らしく、また利発そうな瞳の子。ただ、顔色が蝋石のように青白かったのを覚えています。

――お母様は、息子さんのことを大変心配していらっしゃいました。なんでも生来体が弱く、特にここ数年は床と座敷を行ったり来たり、という調子だとか。この子を未来をどうか視て下さい、と伏して拝むようにお母様は仰いました。

――息子さんの頭の僅かに後ろ、頭と二重写しになるようにして、青白く頬のこけた顔が浮かび上がって見えました。死相です。その顔つきは元服するかしないか、その程度に見えました。私は視たものを正直にお母様に申し上げ、あと十年も生きられないとお伝えしました。

――お母様の嘆き悲しむ仕草は、こちらまで驚いてしまう程でした。お母様は泣きながら、息子さんの手を引いてお帰りになりました。私は「悲しい」というのがどういう気持ちなのか良くわかりませんが、きっとあのお母様のようなことを悲しいというのだろうと思いました。


――数カ月後。また母子連れが社を訪れました。八方手を尽くして医者にかかり薬を飲ませた、これで息子は生きながらえるだろうか、と。あんなにもお美しかったお母様の髪の毛はぱさぱさと縺れ、絢爛豪華な衣装もどこか質素になっていました。

――私は再び息子さんと相対しました。息子さんの後ろに現れた死相は、ほんの少しですが、以前視たときよりも大人びていました。私は喜び勇んで言いました。もしかしたら十年は生きられるかもしれません!けれどお母様はあまり喜んでくださいませんでした。目を見開いてぽかんと口を開け、言葉少なに社を去って行かれました。

――喜んではくださいませんでしたが、悲しまれなくてよかった。そのようなことを侍従に言いましたら、彼女は難しい顔で言いました。姫御前、悲しみを表す形はひとつではないのです。八年で死ぬと言われた息子が十年で死ぬと言われたところで喜ぶ親がどこに居ますか、と。なるほどなあ、と私は思いました。


――もう終いかと思われた母子の社参りでしたが、季節が変わった頃でしょうか、また二人はいらっしゃいました。お母様の衰えは誰の目にも明らかでした。手立てという手立てはやりつくした、これで駄目だというならばもう諦める他は無い。どうぞ息子を視てやってくださいとお母様は力なくおっしゃいました。

――恐る恐る息子さんの顔を覗き込みますと、まあ、なんということでしょう!今の息子さんと全く同じ顔が、瞳を閉じた状態で宙空に浮かんでいるではありませんか。流石に私にも分かりました、これは悲しいことですね、って!けれど嘘吐きは閻魔様に舌を抜かれてしまいます。結局はありのままをお母様にお話しました。

――息子さんの命はもう幾ばくもありません。小声でそう告げると、お母様の顔はみるみるうちにさあっと紅潮しました。彼女は大きく目を見開いたまま息子さんの手を引っ掴み、言葉もなく出て行ってしまいました。後に取り残された私はどういう顔をしていいものかも分からず、ただなんとなくさびしいような気持ちになっていました。


――それから季節がひととせ巡り、あのお母様はまた社にいらっしゃいました。また昔のようにつやつやと美しい黒髪に綺麗な打掛を着て、お顔の血色も良くなっておられました。あの後すぐに息子は逝ってしまいましたが、あの子の弟も生まれたことですし、気落ちしてもいられませんから、って。

――それを聞いて私も嬉しくなってしまって、頼まれてもいないのに、つい口を滑らせてしまいました。そうですね、すぐ後ろで亡くなった息子さんも見守ってらっしゃいますよ。どうぞこれからもがんばってくださいね、と。お母様の雰囲気ががらりと変わったのはその瞬間でした。

――あの子が居るの?どこに?詰め寄らんばかりのお母様に、私は教えてあげました。お母様のすぐ後ろ、お顔に添うように…あら、これはお母様の死相かしら?今と変わらぬお顔のような…。そこまで言うとお母様は、逃げるように帰られてしまいました。結局、息子さんのお顔がお母様の死相の首元に噛み付いていることは、言えぬままでした。


――後で下働きの娘から、亡くなった息子さんは「しょうふく」らしいよ、とこっそり教えてもらいましたが、私はその言葉を知りません。侍従らに気いても教えてくれないので、きっと知らなくても良い言葉なのだと思っています。あのお母様、また社にいらっしゃるでしょうか。もうずっとお会いしていないので、心配です。













手引の話


――ああ、このような格好で失礼する。こうなってしまった所以をお話しようと思うのだが、いいだろうか?なに、恐い話などではないよ。


――天下を分けた戦の後で、世の中は急速に安定へと向かって行った。やはりこの世は平安こそが本質なのだと儂は確信した。今まで武勇を誇っていたつわものたちが、今は治世のために奔走する。それでいいじゃないか、と。世の中の仕組みを作るために数年間は忙しくしたが、徐々に身の回りは穏やかになっていった。

――そんな折り、儂は菩提寺へと参詣した。僅かな供回りを連れて、散歩がてらの気楽な出歩きだ。季節は春、うらうらと日は零れ花は咲き子らは元気に遊びまわっている。儂が平和を作ったなどと大言壮語する気は無いが、ああこの道は間違っていなかったと儂は確信したのだ。

――ふと見れば、社務所の隅に御籤の箱が置いてある。普段ならば別段気にもとめなかっただろうが、陽気に誘われてとでも言うか、引いてみようという気になったのだ。儂は銭を置くと、箱を二三度振ってから、穴に手を入れた。


――指先が紙に触れることはなかった。儂の手は、誰かの手に掴まれた。…言っている意味が分かるだろうか。箱に突っ込んだ儂の手を、誰かが中から握り返したのだ。まるで、握手でもするように。もちろん箱はそんなに大きなものじゃない。人が隠れられるような仕組みもない。しかし儂の手を握っているのは、明らかに大きな人の掌だった。

――儂は反射的にある人のことを思い出した。昔、儂が殺した人だ。そう考え始めると、もうその想像は止まらなかった。箱の中の手はより大きく力強くなり、儂を詰っているような気さえした。声も出せぬ儂を救ったのは、寺の鐘の音だった。ごーん、と大きな響きが届いた瞬間、箱の中の手は一瞬緩んだ。儂は箱を投げ捨ててその場を逃げ去った。


――そろそろ恐怖も薄れようという頃、儂はまた手を握られた。何か小物を取り出そうとして、無意識に巾着を引き寄せ手を入れた瞬間だった。布を巻いた手の感触に、儂はまた想像してしまった。筋張った固い手と、その手を隠さざるを得なかった持ち主のことを。その手は絡みつくように儂の手を取ると、思いがけない強さでぐっと引いた。

――無防備な姿勢でその力を受けた儂は、一瞬にして肘のあたりまで巾着の中へ囚われた。ほんの四、五寸ほどしかない巾着の丈に、なぜ儂の上腕が入ってしまったのかは考えるだに不思議だ。儂が裏切ったその手は、まるで鞭のように撓り儂の手を中へ引き摺り込もうとする。布越しにいびつな爪が掌へ喰い込んだ。

――儂は腹の底から叫びながら力任せに手を引き返すと巾着を畳に叩きつけた。力なく落ちた巾着は、上から触っても手など入っておらず、中からはただ煙草入れや印籠など雑多な品しか出てこなかった。儂は肩で息をしながら思わずその場にへたりこんだ。


――忘れるな、という声が聞こえるようだった。儂の罪を知る人が例えこの世に居なくなっても、罪が消えることはないのだと。右手にはくっきりと掌の痕が付いている。これが罰かと儂は思った。何事も無く自分が往生できるとは思っていなかった。罪は罰でしか清算されないのだろう、とも。


――だから今、儂はとても静かな気持ちでいる。天下があるべき場所に定まるまで待ってくれた彼らに、少しの優しさすら感じる。さっき、濡れ縁から夕陽を見ていたんだ。大きな夕陽が山の端に消える様に見惚れながら、儂は懐紙を取り出そうとして懐に手を入れた。そうしたら…引かれたのだ。

――細く長い指。きっちりと切られた短い爪。冷え切った掌。遂にあいつが来たんだ。儂の手を引きに、冥府から来てくれたんだ。可笑しいだろう、儂にもう恐れはなかった。むしろ、いつか来るこの時を待ってすらいたのかもしれない。じわじわと引き寄せるその手の力に、儂は抗わなかった。儂はその手を強く握り返した。

――手を引いていたはずの手は、いつの間にかその力を抜いていた。あいつはとても優しいから、きっと儂を引きずり込むことなどできないのだろう。儂は、あいつになら引きずり込まれても良いと考えていたのに。それが儂に似合いの最期だと、跡形も無くこの世から消え、いずれ人々から忘れ去られるのだと腹を括っていたのに。


――もう儂にこの手を離すことはできなかった。この掌の感覚が、最後に残された儂とあいつの絆なんだ。もう儂には、この絆を絶つことなどできない。例え憎まれていようとも、呪われていようとも、あいつが儂に何かを向けてくれるというならば、儂は全てを受け止めようと思ったんだ。

――心なしか、この手も儂の手を握り返しているように思えてきた。儂は幼い日のことを思い出している。またこんな風に手を繋げる日が来るなんて、あの雨の夜に全てを諦めたはずだったのにな。…今、儂は幸せだよ。













古書の話


――卿は書など好むかね?いや、感心感心。過去に学び未来に活かすことは、今を生きる者の責務だ。それでは結構な数を所有するのだろう。私も書画を眺めることは吝かでは無いが、しかしあまり数は持たないようにしているのだよ。

――私は物を蒐集するのが好きでね。主な対象は茶器と武具か。卿にも覚えがあるだろう?喉から出る程欲しかった物を手中に収める感覚を。一度味わったら二度と忘れられない、支配という名の媚薬だ。特に古い物ほど、向かい合ううちに過ごして来た時間が見えてくる。私はそれを、品物が「語り出す」と言っているのだがね。

――茶器が語る名家の隆盛と没落の物語。刀剣の語る戦場の高揚と散華の物語。それは例えるならば春の霞のように、見ようとすればするりと逃げて、見まいとすると目に映る。私はそんな朧げなものを好む。彼らは自分からは語らないのだよ。こちらの求めに応じて心を開く、奥ゆかしいものだ。


――しかし、自ら語り出そうとする品物もある。…書籍、経典、等々。アレらは自らの言葉を伝えるためにこの世に産み出されたものだ。自らの話を聞いて欲しくて仕様が無い。隙あらば自分を手に取らせ、書いた者の想いを分からせようとする。

――私の知人に、古書の蒐集を生涯の愉しみとしている者が居てね。彼の部屋は誠に壮観だった…壁一面を埋め尽くす本、本、本。天井まで届くような高い書棚でね、一番上の棚へは手が届かないと言って、何本もの梯子を備えていたよ。彼はそれこそ一冊一冊の古書を、舐めんばかりに愛していた。

――しかし蒐集熱というのは、手に入れた瞬間が最高潮だ。より良い物、より珍しい物を求めて行くうちに、最初期の物への情熱は喪われて行く。茶器ならば死蔵したとて何も無いだろうが、古書においてそれは悲劇だ。彼らは「ものを言う」という属性を持って生まれてきたというのに、誰もその声を聞いてくれないのだから。


――彼の部屋を埋め尽くした書画においてもそれは同じことだった。卿は書を好むと言ったが、十遍読み返した書は一体何冊あるかね?逆に、一度も読まずに書棚に仕舞った書は?彼らの言葉に耳を傾け、常に理解しようと努めたかね?…ふむ、黙るか。賢明、賢明。できぬことやありもせぬことを口にするから人は滅びる。

――くだんの知人だがね。蒐集仲間から、体調を崩していると聞き、見舞いに行ったのだよ。彼は独り者で、家の中に火の気はなかった。蒐集物を陳列した部屋から、最も遠い日陰の小部屋で彼は寝ていた。なぜこんなところに居るのだね?私の問いに彼は答えた。…声が聞こえるのだと。

――彼の蒐集物の部屋には天窓も明かり取りもありはしなかった。燭台を灯して文字を追うような暗がりの中で、彼は呟きを聞いたのだという。最初は聞き間違いかと思ったらしい。しかし呟く声は日に日に大きくなっていく。老若男女、もはや数えきれぬほどの小さな呟きが、音の洪水となって彼の耳に流れ込んで来る頃には、彼は精神の安定を欠いていた。


――本が訴えかけてくるのだ、と彼は私に言ったよ。一つ一つの声は微々たるもの、しかし部屋中の本が一斉に呟けばそれは津波のように膨れ上がって彼の心を侵していく。蒐集から距離を置きたまえ、と親切心で私は忠告したが、彼は聞き入れなかったろう。程なく彼は死んだと聞いた。書庫の中で自ら命を絶ったらしい。

――彼の蒐集物を仲間内で分け合うことになり、私は再び彼の屋敷へ赴いた。主を喪った書庫は、過日と変わることなく息を潜めて壁と一体になっていた。ここで彼は絶命したのだ。遺骸を見つけた者によると、彼は両耳を削ぎ落していたらしい。彼が座っていた椅子に腰かけ、目を瞑ってみると、まるで部屋中の壁が自分に向かって倒れてくるように感じた。

――ぼそぼそ、と何かが聞こえた気がして私は目を開けた。そしてそのまま部屋を出て、何も受け取らずに帰ったよ。やはり私には茶器や刀剣が似合いだ。自己主張の激しい者は、人ならば楽しくとも物は厄介だと知ったよ。今でも彼の書画たちは、自分の声を聞いてもらうのを今か今かと待っているのだから。


――卿も部屋を見渡してみるといい。本から見られていると感じないかね。彼らは開かれ読まれることでようやく報われる存在なのだ。ほら、目を背けただろう。それがいけない。彼らは今、卿に幻滅したよ。耳を澄ませると何かが聞こえてこないかね。高い声、低い声。一様に小さく、細々と呟く声が…卿の耳を埋め尽くす、読まれぬ文字の聞かれぬ叫びが…