第 一 夜


死神の話/佐助、黒猫の話/半兵衛、花街の話/慶次、鬼子の話/幸村

死神の話


――俺様が、まだひよっ子だった頃の話。

――捨て子だった俺を拾ったのは忍の里の者だった。だから俺は忍になるべく育てられた。別段それに不満は無いけれど、修行はかなりきつかったよ。同じように幼い頃から仕込まれても、やっぱり人にゃ向き不向きってもんがある。だから毎日が「選別」みたいなもんだった。こいつは忍になれる人材か…いや、生かしておくに値するモノか、ってな。

――俺は大して優秀でもなかったが、ただ一つだけ他より秀でたところがあった。俺は毒に対する耐性が滅法強かったんだ。皮肉なもんだ、いくら鍛えても肉の付かないこの体が、内側からの攻撃には耐えられるってんだからさ。まあとにかく、それがあの夜の生死を分けたに違いない。旦那に仕える直前だから十と二、三…そんな年周りの頃だった。

――もうお役目を持って仕事をこなし始めていた同輩たちと十人ばかり、里に呼び集められたんだ。幼い頃から毒に体を慣らして来たお前たちの、最後の仕上げをすると言われて。渡された水薬は無色透明にして無臭、少し水より粘度があるようだったが、こんなもの料理に使われたりしても全く分からないだろうって代物だ。

――巷で使われる毒薬のうち、最高に見つけるのが困難で致死量も高い毒物だと長は言った。これまで体を作って来たものでも飲んで生きられるかは五分五分、しかし越えたならもう何も心配はない、一人前の忍として主の為に尽くせよと。怖々とその薬を見る回りの奴らに余裕をかまして俺は一気に呷った。その瞬間に、昏倒した。



――ようやく目覚めたのは夜半過ぎ。薬を飲んでから何日経ったのかは分からなかったが、体の節々のこわばりから見て二日は軽く寝てただろう。頭が割れるように痛み、臓物は大きな手で揉みしだかれているみたいだった。覚醒した瞬間に俺はもんどりうって吐こうとしたが、もう胃の腑は空っぽだったみたいだ。何も出せずに仰向けになると、明かり取りから満天の星空が見えた。

――じわりと星が滲んで俺は思った。ここで死ぬのかな。なんで死ぬのかな。なんで生きてたのかな。なんで生まれたのかな。とりとめの無い考えは、星の瞬きの早さでくるくる頭の中を回った。口を半開きにしたまま浅い息を吐き続ける俺に、その気配を感じ取れたのは何かの偶然にしか思えない。俺は目ん玉だけ動かして、部屋の入り口の方を見た。俺たちは板張りにずらりと並べて寝かされている。入口に一番近い奴の枕元に、黒い衣を被いた人影が屈みこんでいた。

――最初俺は里の者が生死を確かめに来たのだろうと思った。俺は自分が生きてることを示そうと身を起こしかけて、再び転げ回った。しかしそんな俺のことを一度たりとも見ようとせず、その人影は何やらぶつぶつと端の奴に語り続け、そうして無言で立ち上がり、滑るようにして隣の奴の枕元へと移動した。そしてまた何やら呟いて、隣の奴へ。一番奥で寝ていた俺は、段々近づいて来るそいつが何なのかさっぱり分からなかった。

――とうとうそいつは隣に寝てた奴の枕元へ滑って来た。ぜえぜえと荒い息を吐いているが、そいつはまだ目を覚ましていない。俺は必死で聴き耳を立てた。辛うじて聞こえたのはこんな声だった。『お前か、お前か』訳も分からず俺はぞっとした。男女の判別もできないような、暗く深い声だった。その時、隣の奴がうわごとのように何か答えた。そして…それきり呼吸の音が絶えた。



――目を見開いたまま絶句した俺の元へ、黒い影が滑り寄る。俺は歯の根が鳴るのを抑えられない。黒い人影は俺の耳元に顔を寄せると、言った。お前かい?その声に思わず視線を巡らせれば…貧にやつれたような、姉さん被りの女が笑いながら立っていた。…おっかさん?思わず言った俺に女はゆっくり頷くと、また聞いた。お前かい?って。懐かしさに胸が締め付けられた。まさかおっかあに会えるなんて。

――驚く俺の前からいつの間にか女は消えて、痩せた男が立っていた。お前か?と聞かれて俺にはこれがおっとうだと分かった。そうだよ俺が佐助だよ、と喉元まで出かかった。本当に、もう少しで答えるところだった。だが済んでのところで思い出せたんだ、自分が捨て子だってことを。おっかあもおっとうも、俺は見たことがないんだよ。

――口を噤んだ俺を見て、男は悲しそうに目を伏せると、一気に縮んだように見えた。えっと驚く俺に、幼い子供特有の、舌ったらずな声が聞こえた。「おぬしか?」…鳶色の髪をした腕白そうな子供が、くりくりとした大きな瞳で俺を見ながら言っていた。俺はその姿に見覚えがあった。いつか仕える主として、里の者から教えられていた。「なあ、おぬしか?」焦れたように言う子どもに、俺は返した。「俺じゃない。死ぬのは俺じゃない。いま死んだら、あんたに会えないよ」

――気付いたら朝だった。夜を生き延びたのは、この組では俺だけだったと知らされた。暫くの間、まともに動くことすらできなかったけど、体が癒えるうちに段々とあの黒い人影の記憶も薄れて行った。でも、今でも思うんだ。もしあれが死神って奴なんだとしたら、死ぬか生きるかの瀬戸際に、そいつの望む姿で現れて、魂を抜く存在なんだとしたら。きっと俺が「いいよ」って、「俺だよ」って答えるとき、俺は幸せなんじゃないかって。









 



黒猫の話


――あまり、近寄ってはいけないよ。伝染る病と決まったわけではないけれど、命に関わることだから用心に越したことはない。…君に障りが出ることは、万が一にも無いだろうけれどね。



――殺風景でびっくりしたかい?別に僕が不遇というわけじゃない。むしろ善くして貰い過ぎているくらいさ。本当ならさっさと追いだされたって文句は言えないんだよ。それを僕の為に庵まで作ってくれて、何不自由無い静養をさせてもらってるんだ。だから僕は彼らの想いに報いるためにも、早く良くならなきゃないけなかったんだけどね。この部屋だって、最初は沢山の物に溢れていた。僕が外に出してしまっただけさ。

――君、ここへ来る途中で何か見なかったかい?黒くて、美しい毛並みをした猫だよ。…そう。それは良かった。飼っている…と言っていいのか…ここ半年くらいで姿を見せるようになったんだ。僕は動物はあまり好きじゃない。匂いが付くし毛が散るし、居るというだけで身の回りの物が痛むからね。でもその猫は違った。まだほんの小さな、掌に載るような仔猫のときそこの縁側に現れて、少しずつ少しずつ座敷に上がるようになった。分を弁えたその様子に、なんとなく僕も絆されてしまってね。餌までやることはなかったが、勝手にさせておいたんだ。

――ねえ君は猫を飼ったことがあるかい。あの黒猫、半年で物凄く大きくなったんだけれど、猫なら普通なのかな。…そう。最初に見たときはこんな小さな豆猫だったのに、今では…いや、そんなものじゃない。もっともっと…この位かな?厭だなあ、豹じゃないよ。猫の話さ。だって僕が猫だと思ってるんだから。うーん、それにしてもやはりあの猫の成長は異常だということだね。有難う。



――座敷を我が物顔で行き来するようになった黒猫は、いつしか自分で襖を開けてここを出て行こうとした。僕は半ば本能的にそれを止めた。むくむくと成長して行く黒猫に、どこか邪悪な気配を感じ始めていたんだ。必死で襖を押さえて叱りつけると、猫は実に無念そうにぐるぐると唸った後、まるで溶けるようにその場で姿を消した。僕は全身の産毛がそそけ立つみたいに感じた。座敷にはまだ濃厚な、猫の気配が満ちている。まだ猫は居る。探さなければ。僕はそう思った。

――仔猫を見たときには、まだ庭で素振りが出来た僕の病状も、その頃にはもう相当に悪化していた。壁に手を付きつつ、猫が隠れられそうな場所を一つひとつ見て行ったんだけれど、行李を開けては一息、天袋を覗いては一息、といった感じだ。僕は弱った己の体と正面から向き合った。私情を挟まず冷静に状況を分析することは、僕の生来の得意だ。僕は、来年の桜は見れないだろう、と悟った。ふと床の間に飾った大甕に寄り、活けてあった橘の花枝を隅へ寄せてみたら、中の暗がりから一対の金色の目が爛々とこちらを見上げていた。



――それ以来僕は碌々眠ることもできなくなった。いつ猫が部屋の暗がりから這い出し、襖を開けて外へ出て行かないとも限らないからね。あの猫を外に出してはならないと、もう僕にも分かっていた。あれは目に見えるまでに成長した僕の病だと。病が力を付け肥え太り、僕だけの命では飽き足らず、更に取り憑く相手を探しているのだと。お前なんかにくれてやるものか。僕は僕の大切な人たちをこの手で守らねばならない。それが僕に出来る、この世で最後の仕事、そして望みだった。

――猫が隠れるものだから、既に部屋から箱や袋はすっかり出してしまっていた。物入れの戸も外してしまったし、これではあの猫を閉じ込める場所が無い。そう、僕はあの猫を捕まえて、連れて行こうと思ったんだ…僕と一緒に、泉下までね。僕はどうしたら良いか考えに考えた。あの猫はもう力も強い。生半な箱では自力で蓋を開けてしまう。中からの力にも屈さず、けして外へ逃すことの無い、そうだ、檻だ。檻の中の猫と僕は心中しよう。病み衰えたこの体にも、せめてそんなことなら出来るだろう。どこかに檻は無いものか。

――見つけたよ。そして僕は、あの黒猫を閉じ込めた。もう二度と出してはやらない。死んでもね。

――この事は、彼らには内緒にしておいてね。きっと皆、僕の気が触れたと思うだろう。まあ実際触れているのかもしれないけれど、もう僕には関係の無いことだ。あとはこいつを道連れにするだけ。…気付かなかったかい。黒猫はずっと君の近くに居たんだ。時折見えていたんじゃないかな?だって君、意図的なのかは知らないけれど、何度も慌てて視線を逸らしただろう。僕の唇から。いや、僕の、口から。…君にも、光る瞳が見えたのかい?









 



花街の話


――昔、俺には大事な友達が居て…そいつと喧嘩別れしたせいで、遊び捲った時期がある。今も遊んでるなんてつれないことは言わないで欲しいな。あの頃はもっと性質の悪いことに夢中だったんだ。今から教えるのは、俺が花街に…女の苦界に入り浸っていたときの話。



――馴染みの妓の座敷に三日三晩居続けて爛れ切った頃だったかな。そろそろ、そろそろ、って言い続けてすっかり日が暮れて、外聞の悪い夜の帰り道。月の無い夜だった。なんだか神経がざわざわ落ち着かなくて、俺は真っ直ぐ大門を出ずに堀端をぶらぶら歩いてみたんだ。仲見世通りを外れた店はどこも小さくて、なんだか獰猛な感じのする女たちが必死で明日の飯の糧を引っ張りこもうと手ぐすね引いて待ってんだ。言い方は悪いけど、地獄巡りでもするような気分だったんだな。だから柳の下に女の子が立ってるのを見たとき、心底驚いたんだよ。この辺には禿を侍らせるような、高級なお女郎さんは居ないからね。

――その子は真冬だってのに薄い浴衣一枚で、頭から水でも被ったみたいな様子だった。小さく結った髷は崩れかけて、落ちた毛束からは雫がぽたぽた滴ってさ。それを見て俺はピンと来たね。ああこの子は折檻されたんだなって。姐さんからか忘八からかはしらないけれど、きつい折檻は廓の倣いだ。おおかた水責めに耐えかねて逃げ出したか、水責めの仕上げとして外に放り出されたか…。どっちにしてもこのままじゃ死んじまう。俺は駆け寄ってその子の体を布で拭い、上から俺の羽織を着せかけた。そこで気付いたんだ。この子には影が無いってね。

――廓の枕語りに相娼から聞いた話を思い出したよ。お歯黒どぶに立つ禿の幽霊の話。へえ、幽霊って体があるんだな、なんて俺は妙に冷静だった。たぶんそれは目の前の女の子があんまりに非力で、不憫で、憐れっぽく見えたからだろう。全然恐くなかったんだ、要するにね。俺は年の離れた妹にするみたいに世話を焼いてやった。女の子が手を差し出したから、迷わず手を繋いでやったよ。真冬の川の水みたいに、骨に染みる冷たい手だったな。



――にいさん、おんもに出なさるのかい。震えるみたいに小さな声でその子は言った。俺が頷くと、その子はぎゅうっと手を握り締めて言うんだ。おれも連れてっておくれ、って。それ聞いて俺、泣けてきちゃってさ。ああ、いいよ、って言ったらようやく笑ってくれたんだ。それきり俺らはなにも喋らず、真夜中の花街を連れだって歩いた。裸足だからか幽霊だからか、その子の足音は全然しなくて、俺はこれが夢か現実か分からなくなったっけ。そうこうしてるうちに大門が近付いてきて、俺はその子に振り返った。目がきらきらして、でも恐いのか俺の服にしがみついてきて。大丈夫だって笑いながら、俺たちは大門を越えようとした…

――すてん、って転んだんだ。その女の子、何の前触れもなく、ちょっとよろけるみたいにして。だから俺は普通に手を出して、大丈夫かいって引っ張り上げてやろうとした。それで気付いた。女の子の足に、誰かの掌ががっしりと喰い込んでいた。動転した頭で手首を辿る。…振り袖を着た新造が、必死の形相で女の子に取り付いていた。俺はその手をなんとか外そうとしたんだが、万力で締め上げたみたいに細い足首にがっちり嵌ってる。

――途方に暮れてふと見れば、新造の足も誰かに掴まれているじゃないか。十六本差しの簪に大打掛の花魁が、般若みたいな形相で新造の足に掴まって…その足を掴むのは…俺はそこでようやく、恐い、と思った。その足を掴んでたのはね、ぼろぼろの服を着て髪だけ残った髑髏だった。腰から力が抜けて、俺は思わずその場に尻もちをついた。思わず女の子の手が俺から離れた瞬間、ずずずっと小さな体が門の中に引き摺りこまれた。

――俺は慌ててその子の手を取ろうとした。でもその子の方がもっと早く俺の足を掴んだ。物凄い力が小さな手に籠められていた。出して、ここから出して…訴える声に段々凄みが増していく。足首の骨が折れるんじゃないかっていうくらいに軋んだ。引きずられる。俺まで門の中に閉じ込められる。幼い女の子だった顔が、少女になり女になり、どろどろと崩れて髑髏になる。腐臭が鼻をついた。

――にいさん、おれも連れてっとくれよ。なあお願いだよ、にいさん。唇が溶けて剥き出しの歯が俺に向けてかたかたと鳴った。頬の肉がまとめてずるりと落ちた瞬間、俺は叫んでいた。叫びながら足を無茶苦茶に振って、骨だけの指を振り切った。そのまま後ろも見ずに駆け出した俺へ、土に這いつくばったままで髑髏は言った。

――うそつき



――気が付いたら俺は、大門の外に転がってた。足にはしっかり、小さな手の痕が付いてたよ。…そう、小さな手の痕が。最後の声もそういえば、あの女の子の声だった。すっかり日は昇っていて、どうやら俺はたちの悪い酔客だと思われていたらしい。番の男が笑いながら、こりゃにいさんの羽織かい、酷ェ匂いだがどぶにでも落としたか、なんて言う。えっと思う間もなく投げ渡されたのは、間違いなく俺の羽織だ。女の子に着せてあげた俺の羽織だ。確かにきつい臭いがするが、もうそれは俺にとって後悔の臭いになっていた。

――ありがとう、と言って俺は大門を後にした。腐臭の染み付いた俺の羽織は、無くなっちまったあの子の体の代わりに、寺で供養してやることにした。そんなことしかもうできないからね。結局俺は、あの子の望みを叶えてやれなかったんだから。つくづく中途半端な男だよ、俺は。









 



鬼子の話


――あの日もこのように粉糠雨の降る夕間暮れでござりました。まだ元服致したばかりの某は、父の使いとして遠方へ赴いた帰り道、信濃の山を僅かな供と越えておりました。その時、獣も通らぬ岩場から現れた者がありました。卑しからぬ身なりをしてはおりますが、憐れに老いた女でござりました。こちらへ近づいて来る仕草で、その者が盲であることは見て取れましたので、某は駆け寄って何用だと訊ねたのです。老婆は懐から何やら紙を取り出して某に渡しました。

――行き倒れの男がせめて最後にこの文を娘に届けて欲しいと妾に託したが、この通り不自由な目では探しだすことが難しい。ここで会ったのも縁と思うて、この文を届けては下さらんか、と。承知致した、ご安心召されよ。そう言ってやると、老婆はこちらが恐縮するほど礼を言い、おぼつかぬ足取りで去って行きました。折り畳まれた文の裏には、悪筆ながらも処を示す言葉が書いてあり、すぐにでも探し始めようと某は歩き出し…しかし供の一人に引き留められ申した。

――そやつは口に指を一本当てたまま、某を連れて静かに老婆を追い掛け始めました。するとなんということ、杖に縋ってよぼよぼと歩いていたはずの老婆は、今や杖を捨てしゃんとした足取りで危なげなく山を下っているではないか!俺様たちで追っかけるから、旦那は先に屋敷に帰っときな。供の言葉に頷いて、屋敷で待った某の元に届けられたのは、想像を絶する報告でありました。否、最初は言いたくない様子であったのを、某が無理に聞き出したのですが。

――肉がね、沢山あったよ

――どういうことだ、と某は聞きました。すると供はこう答え申した。獣の肉にしては大きいってんで少し調べたらすぐ分かった。…その家ではね、人を解体して肉の塊にして、欲しがる者に売ってたんだ。某は卒倒しそうになるのを押さえながら、老婆に渡された文を取り出し開いてみました。するとそこにはこう書かれておりました――

――『今宵はこの男にて仕舞いに候』



――雨が、止みませぬな。盆の口と言うのに、これでは迎え火もようよう焚けませぬ。

――さて、げに恐ろしきこともあるものですな。しかし某は、大きな衝撃が去った後、幼き日のことを思い出しました。近隣の子らと鬼事をして遊んでおった時でござる。何故、鬼に掴まれたらいけないのだろう。何故、鬼に捕まったら鬼にならねばならぬのか。ふと沸いて出たこれらの疑問に供の者は答え申した。捕まったら喰われちゃうからね。某は更に聞きました。鬼に喰われたら鬼になるのか?、と。そやつは答えました。

――違うよ、人を喰うのは鬼だってことさ。…それならば、あの山中の老婆やその家に住まう者は、もはや人面をした鬼ということになるのでしょうな。

――御客人、濡れてしまわれますぞ。ささ、もう少し中へとお入りくだされ。この雨は暫く止みませぬ。…わざわざご足労頂く程だ、御客人も某が世間様からどのように評判されているかご存じでありましょう?血に飢えた虎の若子、戦場の鬼よ、と。近頃では何を思うたか、某は人の生まれではなく、信濃の山の天狗や鬼が父母であるなどという噂も立つ始末。しかもその噂は広まるばかりでござりまする。武門の誉れと申せばそれまで、しかし某にはどうにも割り切れぬのです。



――供は『悪鬼になるな』と某を諌め申すが、しかし某には訳が分からぬ。つわものならば敵を討ってこそ。更に一廉の武将ともなれば、群を抜いた働きをしてしかるべきではないか、と。何が鬼か。何が悪か。某にはどうにも解せぬのでござりまする。

――某には、鬼になってでも喰らいたいと思うお方が居りまする。その方の魂を喰らい尽くせるというならば、或いは某も鬼となるやもしれませぬ。しかし某の中の何かが、それはいけないと引き留める。人の領分を越えてはならぬと戒める。戦場に出てそのお方と目見えるたび、某の中で繰り返される葛藤にござる。しかしお聞き下され御客人…某にはきっと、きっとあのお方の肉が、血が、喰らえてしまうのでござりまする。

――このまま噂が一人歩きして行けば、いつか某は鬼の子になりましょう。人に育てられた鬼の子が、戦場の鬼として死ぬことになるのでしょう。歴史は人が作るもの。某亡き後の人々が某を鬼と認めれば、それは時間の川を遡り、某を本当の鬼へと変えるのでござる。…その時、人として生きた真田源次郎の記憶は、葛藤はどこへ消えてしまうのでしょうや?



――雨が上がりましたな。お気を付けて帰られよ。迎え火を忘れずお焚き下され。戦場をさ迷う無数の鬼どもの為にも。